していた。あの辺は江戸時代からお茶の畑が多く、今でも地つづきに武蔵狭山というお茶の名産地が残っている程である。そんなわけで所々に家があり、家と家との間は殆んど茶畑であった。学校にも近いので都合はよかったが、あの団子坂などが昔は随分と急な坂で人力車などは上ることが出来なかった。ようやく上っても今度は下りる時には止まらない。命がけで上ったり下りたりするような坂であった。下の谷中道の両側はずっと田圃《たんぼ》になっており、山岡鉄舟の全生庵等があった。毎年秋になると団子坂は菊人形で賑《にぎ》わった。森鴎外先生はその頃から団子坂上の藪下という所に居られて馬に跨《またが》って通って居られるのを見かけた。鴎外先生という人は講義をする時でも何時でも、始終笑顔一つしないでむずかしい顔をしていたので、鴎外先生というと無闇に威張って怖い顔をしている先生と思っていた。年中軍服でサーベルを着け凡《およ》そ二年間美学の講義をせられたが、学年の終りに生徒に向い、今日まで教えたことについて分らない所があったら何んでもよいから質問をするようにということであった。
みんなはそれぞれと質問をし、疑問の点を尋ねた。その時に生徒の一人が、先生仮象というのは何ですかと言い出した。そうすると鴎外先生はひどく怒ってしまい、仮象ということが分らないようでは一体今迄何をしておったのか、それが分らないようではこの一年間の講義は何にも分っていないのだろう、と先生をすっかり怒らせてしまった。その質問をした学生はもう落第かと思って隅の方に小さくなっている。学生も何んにも言わず黙りこくっていた。鴎外先生はプンプン怒り、そんな無責任な聴き方があるかと怒鳴りながら、それでお仕舞いになったことがある。尤《もっと》も仮象ということは今から考えればハルトマンの美学の一番の根源である。それが分らないで講義を聴いておったのでは分らないで聴いていた方が悪いに違いない。僕は鴎外先生を尊敬していたが、先生はどこまでも威張って居るように見えた。神経の細やかな人で、戯談一つ言ってもそれを覚えていて決して忘れない。非常に好き嫌いの強い人であった。
その頃の僕は生理的にも心理的にも一つの目覚めの時代であって、彫刻をするについても非常に文学的に考えていたので、実際の仕事の上にも動物や仏像や人物、それから様々な世相のあらわれ、そういうものである観念を具備
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