しておるものをやってみようと念じていた。学校に在っての制作は二年間くらいは何でもなかったが、その後渡辺長男君が初めて彫塑会という会を作り、学校の生徒だけで展覧会を開いたりするようになってから僕の仕事も段々かわってきた。つまりその頃始めて泥をいじくり出し、例えば坊さんが月を見上げて感慨に耽《ふけ》っているところや女の浴衣《ゆかた》が釘にぶら下っておるという妖気《ようき》の漂う鏡花式みたようなものを無闇に作ったが、それが当時の彫塑会では新しかった。後にこういうことが間違った新しい彫刻運動のもとになったりした。
その頃僕は国文の方は美術学校で教えられる外に古典の方をさかんに勉強していた。漢文の方は本田種竹先生に師事した。詩なども大いに読んでいた。それが初めは文学的彫刻となってあらわれ、後にはその文学的彫刻を止揚するために詩歌に近づいた。俳句などもやり、角田竹冷先生からは一等を貰ったりした。折から日本の新派和歌が起り、落合先生は別にしても、久保猪之吉、服部躬治などがいかづち会というのを作って読売などの紙面をさかんに賑わし出した。そういうところへ明治三十三年に「明星」が始まった。これが華々しい運動となった。
「明星」の四号位からその新詩社に入社したが与謝野先生の添削は大へんなもので、僕の歌なども僕の名前がついているから僕のだろうと思うくらい直されてしまい、自分の書いた所は一字か二字しか残っていない事もあった。これでは誰の歌だか判らない。だからその時代のものは自作とはいえない。僕のものといえばその後僕がアメリカに行く船の中で拵えたもの、あの頃から後のが自分のものである。その当時は象徴派、ロマンチック派等が詩壇に起って僕は蒲原有明、上田敏、薄田泣菫などのものを読んだ。
其頃学校の方では校長岡倉覚三先生がやめさせられ、教員も総辞職をするという仕末になり、親父も辞職をしたので僕も退学した。それが明治三十四年である。その後しばらくして又親父が復帰したので僕も学校にかえった。岡倉先生はまもなく日本美術院を拵らえ、下村観山、横山大観や菱田春草等と共に大きな日本画の改革をやり出した。岡倉先生の着想によるロマンチックの仕事は極めて周知のことで、当時としては非常に新しいものであった。線のない絵を描いたり色々と新機軸を出した。その為に今度は高山樗牛が美術評論を発表するなど、なかなか華々しい有様
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