美術学校時代
高村光太郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)齢《とし》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)五分|芯《しん》

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 僕は江戸時代からの伝統で総領は親父の職業を継ぐというのは昔から極っていたので、子供の時から何を職業とするかということについて迷ったことはなかった。美術学校にも自然に入ってしまった。二重橋前の楠公の銅像の出来上ったのは明治二十六年頃で僕が十一歳の時であり、美術学校に入ったのは明治三十年の九月だったから齢《とし》でいえば十五歳であった。
 その頃の世の中は学校の規則なども非常に楽なもので、願書の上でだけ何歳と書いておけば入学が出来たので、早い方が良いということから歳の多い者の中に子供みたいな僕が飛込んでしまった。その頃の美術学校の制服というのはちょうど王朝時代の着物のような、上着は紺色の闕腋《けってき》で、頭には折烏帽子《おりえぼし》を被《かぶ》り、下には水浅葱《みずあさぎ》色の段袋を穿《は》くという、これはすべて岡倉覚三先生の趣味から来たものであったが、どうも初めそれを着るのが厭《いや》で気羞《きはず》かしくて往来を歩けないような気がしたのであった。その頃はいつも絣《かすり》の着物に小倉の袴《はかま》を着けて居ったので、この初めの制服は何となく厭でならなかった。
 それに代って洋服の制服が出来たのは僕が三年生の時で、何でも正木直彦先生が校長になって以来今の制服になったように記憶する。
 当時の美術学校は始めの一年が予科で本科が四年、五年で卒業ということになっていた。始めの一年の予科は皆おなじ学習をやり、その一年間やった学習の中で自分の気にいった科を選んで本科に入る。それから後四年間やって卒業するのである。僕は洋画の方はやらないで日本画をやらせられた。それから彫刻をやった。予科のうちは方々の教室に入って日本画もやり彫刻もやるという風であった。
 その当時の日本画科の先生には橋本雅邦、川端玉章、川崎千虎、荒木寛畝(今の十畝さんのお父さん)それから小堀鞆音等がいた。彫刻の方では僕の親父高村光雲、外に石川光明、竹内久一両先生、この三人くらいであった。木彫の方には助教授の林美雲先生などが居られ
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