た。僕は日本画の方で臨画ばかりやらされていた。つまり以前からの学校の御手本であり、これは岡倉先生の趣味に合ったものばかりで南画系統のものは無く北画ばかりであった。それを先ず一年間勉強すると今度は彫刻科にいって木彫を主としてやるようになった。
学校では親父と石川先生などが相談して、やはり昔からの木彫の順序立ったやり方を教える。地紋、肉合《ししあ》い、浮彫、丸彫等と二年間くらいはそれを教えられる。小刀の使い方なども覚える。僕もその通りをやっていたが、早くから自分のやっていたことなので、学校といっても唯自分の家の延長のようなもので別段かわったところでも何でもなかった。
この彫刻の同級にいた人で今特に記憶しているのは水谷鉄也君といって片瀬の乃木大将の銅像を作った人、後藤良君も木彫で仲間であったが、その他の人はよく判らなくなってしまった。僕の一年前には武石弘三郎君という人が居り、そのもっと前には渡辺長男君という人が居た。こういう人達と三年位までは特に変ったこともなく、先ず当然のことを無事にやって居ったのである。またその時分の学科といえば黒川真頼が日本歴史、詩人の本田種竹という人が通鑑の講義をして居った。森鴎外先生が美学の方をやり、久米桂一郎先生が解剖学を受持たれた。その学科というものはひどく簡単でほんの申訳みたようなものだったので、僕は馬鹿馬鹿しくて自分で勉強した。試験の時百二十点貰ったことがある。大村西崖先生の時だったが、日常自分で読んでいるものが試験に出てくるのだからそんなことになるのだろう。随分のんきな時代であった。
ちょうど明治さかんな頃のこととて世の中はどんどん進んでくる。僕たち青年の眼には庭の色までもまるで毎日変化し、生き生きとして見えるようであった。そういう時代には何でも実に面白かったし、僅かな間ではあるが朝から晩まで実際大へんな勉強をしたものだった。当時はまだ電灯はなくて蝋燭《ろうそく》やランプで、ランプも昔は五分|芯《しん》三分芯などがあったが改良されて芯を丸くした空気ランプというのが出来、それが非常に明るいのでそれを使って一生懸命に勉強した。ホヤのついた西洋蝋燭の行灯《あんどん》みたようなものもあって、これはお客様用に使ったりしていた。
僕の住居は矢張り今の林町だったが、まだあの辺一帯は田畑や竹藪《たけやぶ》で道の両側は孟宗竹《もうそうちく》が密生
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