真和上のような肖像の神品となる。
 奈良朝後期には唐招提寺や大安寺のような新様の形式が大陸の影響下に生れ、それが又日本美に一段の奥深さを加えて弘仁期への橋を成している。唐招提寺金堂には今でもそれらの巨像がずらりと並んでいる。聖林寺の十一面観音像は又これとは離れて独立した天平後期の雄大の気を示顕する。
 今は原作を見るよしもないが、天平盛期にあたっていしくも聖武天皇は国家の総力をあげて東大寺に五丈余尺の金銅|毘盧舎那仏《びるしゃなぶつ》を建立あらせられた。この記念碑的製作の様式についての民族的本能から来る美の採択は恐らく劃期的《かっきてき》なものがあったであろう。それは内、国家を統一し、外、国力を唐《から》天竺《てんじく》にまでも示し、日本が世界の美の鎔鉱炉《ようこうろ》であることを千幾百年の古しえ、世に示そうとされたのである。
 斯《か》くの如く天平期の日本芸術の美は絢爛《けんらん》を極めているが言い得べくんばこれはすべて完成|綜合《そうごう》の美であって、真の意味での新らしい芽は無い。すべて飛鳥白鳳期に胚胎《はいたい》せられたものの進展成熟であり、例えば夢殿の救世観世音《くせかんぜお
前へ 次へ
全29ページ中17ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
高村 光太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング