で、端から部分的に片づけてゆくというやり方はしない。象牙彫《ぞうげぼり》などでは全体にかまわず端から仕上げてゆくというやり方は随分行われるが、木彫では決してそれをさせなかった。
美術学校が始って私はそこに入ったが、正木さんが校長になって暫くして彫刻科の中に塑造科を設けることになり、今迄一緒にやっていた生徒が木彫科と塑造科に分れた。私は元より木彫の方の生徒である。木彫の生徒は同時に塑造もやったが、塑造科の生徒の方は塑造専門であった。塑造科の方の先生は長沼守敬先生であった。この人は不思議な潔癖家で、自分の説を一寸でも曲げないで直ぐ衝突するから、学校では忽《たちま》ち喧嘩《けんか》をして了った。私の父が調停係になっていた模様だが、最後には到頭学校を辞めて了った。長沼先生は油土をイタリアから取寄せ、油土で原型を拵えるのはその頃から始ったのである。粘土は後になっていじり始めたので、その頃はどんな大きなものでも油土を使った。それを石膏《せっこう》にとってそれから三本コムパスと針とで石などに移すというのが長沼先生のやり方であった。長沼先生が止されてから藤田文三さんが教授になったが、あの人の仕事は、何を拵えても同じになって了い、非常に癖のある彫刻で、幼稚で余りよくない。大層如才のない人で、生徒を甘やかして了った。長沼先生は生徒には厳しく仕事も真面目で面白いところがある。学校に遺っている老人の首なども真面目に拵えてある。長沼先生は非常に芸術的良心があるというのか、自分の彫刻などは駄目だというので、日本中の銅像などは皆|毀《こわ》れて了えばいいというような否定的な考え方になって、晩年は彫刻を諦めて了って自然を友として居るのを理想とし、彫刻界と交るのを厭がって居られたようであった。当時の塑造科の人々の拵えていたものは今考えるとサロンの彫刻のようなものだが、その頃はそれが非常に進んだものに見えて、木彫の方は時代に遅れているという気がしていた。
美術学校を出る頃、私の拵えたものは変に観念的なもので、坊さんが普段の姿で月を見ているところとか、浮彫で浴衣《ゆかた》が釘に掛ってブラ下っていてそれが一種の妖気《ようき》を帯びているという鏡花の小説みたいなものを拵えたつもりで喜んでいた。それから浅草の玉乗などを拵えた。玉乗の女の子が結えられて泣いているのを兄さん位の男の子が庇《かば》っているところである。その頃朝早く見物人の入らない先に花屋敷に入れて貰って虎の写生を続けていたが、その道で六区を通り抜けると、十二階下の所で玉乗の稽古をしている。それが実に厳しく、それを見てそんなものを拵えたのだが、それを学校の彫塑会という展覧会に出したら、岩村透さんや白井雨山さんが目をつけて評判になった。その頃は、何かそう言った風な文学的な意図のものでなければ承知出来なかった。
その時分、私は歌をやっていた。詰り彫刻ではやれない位に自分の裡《うち》に文学的な要求が出て来て、何か書かなければ居られなくなったのである。丁度森鴎外さんの「即興詩人」などが出た時分で、私はその頃は一かどの文学青年であった。そういうことは割合に小さい時から好きだったから、そういう方面の友達は別にいなかったけれど、学校で回覧雑誌などを出したことがある。そのうちに、与謝野鉄幹先生の「明星」が出て、暫くたってからそれに入ったり、又それ以前には久保先生の「雷会《いかづちかい》」などがあって、それに入っていた。そういう風で文学的なことが彫刻の上にも表現したくて仕方がない。卒業製作なども、何でも坊さんが経文を棄てて世の中に出るという所であった。私ばかりでなく機運が皆そんな風に動いていた。山本筍一がキリストの説教のところを作るとか、細谷三郎が俊寛を拵えるとか、何か文学的要素を持っているのがいいということになって、題も変てこな文学的な題をつけたものだ。後々まで悪い影響を学校の彫刻に与えたのは其処らから始っているようである。
学校を出て研究科に入ったが、彫刻科の先生は残らず駄目であった。何等の新知識もないし仕方がない。洋画科の方を見ると黒田清輝先生のような人も居て進んで居るからというので、再入学して洋画科に入った。その時の同級生に藤田嗣治、森田恒友、岡本一平、田辺至の諸君などがいた。洋画を一年ばかりやった頃、岩村(透)さんが、「どうして洋画などへ入ったのだ?」と訊《き》くので「洋画へ入って新しい知識も得るしデッサンなどもやってみたい。」と言うと、「彫刻をやるのに、洋画は違うのだから、そんな無駄なことはしない方がいいだろう。」というので、岩村さんが父に持ちかけ、無茶苦茶に私の外国行をすすめた。私は外国に行くといっても、いろいろ研究してからの方がいいと思っていたので余り行く気がしなかったが、父は「今のうちなら自分も無理をしても金が稼げるから、年を老《と》ってからでは危い。」というので、無理遣《むりやり》に背広など拵えて始めて着たりして厭《いや》で仕方がなかったが、行くことに決めた。然し愈々《いよいよ》行くと決ってからは、皿洗いをしてでもやろうと考えていた。岩村さんはシカゴの博覧会の時にその審査員になって行って、向うの審査員に知合があったから、マクニール、フレンチ、ボノーなどという人達に宛てて「|最も将来ある《モーストプロミッシング》」彫刻家だからなどという紹介状を書いてくれた。それを命の綱として、父から二千円貰って出かけたけれど、旅費を取ると実にポッチリのわけだった。然も紹介状などは何の役にもたたなかった。そして働くといっても私の取る金は一週六ドルか七ドルの少いものだから、なかなかであった。後には父から金を拵えて送ってくれてはいたけれども、実に僅かな金なので、英吉利《イギリス》に渡ってからは農商務省の練習生というのにして貰い、月々六十円程貰ってやっていた。世話になったポーグラム先生という人は非常にいい人でいろんな事を助けてくれた。世間では沢山金でも持って行ったように思って、向うに居ても金持の連中などで対等のつきあいをしようと思った人達が居たりして、そういう時は何時も仲間外れをしていたが、金がないと言ってもどうしても本当にしなかった。後々まで何の時もそうで、世間の眼には帝室技芸員の坊ちゃんという風に映っていたらしい。然し実際は父は死ぬまで産を遺していなかった。それで私は外国から帰って後になって父の下職みたいな仕事をやって生活をしていたのも、結局そうより外に仕方がなかったのである。「金があるのに怪しからん。金があるから作品を世の中に出さないで威張っているのだ。」などということをよく言われたけれども、事実は私は金を貰う為にそんな詰らない仕事を父の下でやっていたのだ。だから私の生活については、世間の考と事実とは非常に違うのである。
四年ばかりして外国から帰って来た。その当時矢張有島生馬、南薫造の両君が帰って来て、二人の展覧会が上野で開かれたがそれが新しい傾向として美術界を刺戟《しげき》した。丁度「白樺」の運動なども同時に起り私も向うの美術界の動向などを書いたりして、美術界の謂《い》わば新機運のようなものが次第に醸成されつつあった。白馬、太平洋などの会が相当盛んで、内田魯庵さんが評論を書いていた時代である。当時、真田久吉君という学校にいた時非常によく出来る人だったが、この人がわが国の印象派の傾向のような人を率いて運動をやろうとしていたところに、偶々《たまたま》斎藤与里さんが帰って来て一緒になって新しい美術の運動を起そうとした。其処に予《かね》てそういう考を抱いていた岸田劉生や木村荘八の諸君が合体して、フューザン会が成立した訳だ。フューザン会という名は斎藤与里さんがつけたのである。私は帰国して暫くした時で、父が六十一の還暦の祝でその肖像を私が作ったが、それが新傾向だというので評判になり、フューザン会の彫刻の方を私に入ってくれという話で勧められて加わった。あんなに熱っぽい運動というものは少い。然し中に二色あるのが矢張別れるもとで、斎藤さんなどの方は多少社会運動のような意味で道楽気があったが、岸田さんの方は本当にむきな芸術運動の積りであった。それで二回位やったけれど別れて了い、生活社というのを拵え、私は其の方に入った。神田にヴィナス クラブというのがあって、其処で、岸田劉生と木村荘八と僕ともう一人、四人で展覧会をやった。私は上高地で写生した油絵を可成出した。岸田君は後期印象派のような画風から脱却して、自分の本当の画に転換した初めで、主に写生で、移り変りの時期だったから幼稚なことは仕方なかったが、非常に質のいい仕事であった。※[#「赭のつくり/火」、第3水準1−87−52]《に》え返るような若い時代の連中で毎日進んで行くというような時代だから、二三日|遇《あ》わないと何処かしら解らなくなって了うという風な毎日を送っていた。だから殆と毎日遇っていたと言っていい位顔を会せて議論したり描いたりしたものだ。あんな猛烈な時代というものは尠《すくな》いだろうと思う。私が結婚したのは丁度その当時である。岸田劉生、木村荘八、清宮彬の諸君とはとりわけ親しくつきあっていた。然しいつの場合でも、私は運動の中心になるというのではなく、傍系のような形でやって居たと言えるであろう。
そういう人々の印象派や後期印象派のような仕事が段々やっているうちにそれではどうにも行かなくなって御破算になり、正直に自分の見たものを描くより仕方がないというに立到った。岸田君は余りそんなことをしている中に胸を悪くし、鵠沼《くげぬま》に引込んで仕事をしていたが、その頃から岸田君の仕事は本当の画になって来たように思う。「白樺」の連中がデュラアのデッサンのもの凄いのに感心して、それに宗教的傾向が加ったりして岸田君を中心に「草土社」の運動になったのである。私は彫刻の方だったから、草土社には加わらなかった。
彫刻家の中で私が一番親しくつきあったのは荻原守衛だ。アメリカで最初に会ったが、その時の印象では油切ったあくの強い人で、大言壮語する田舎者のように感じられて、私達江戸の教養ではそういうのを実に厭《いや》がる。然し後で考えれば、正直な丸出しの人で、段々油切った所がなくなり闊達ないいところだけが感じられて、日本に帰ってからなどは非常にいい人であった。一所懸命彫刻のことだけ考えていたような人で、今日私達が考えているような彫刻をやり出したのは矢張この人である。ロダンによってそういう事を悟ったのだろうと思う。よく角筈のアトリエに遊びに行ったものだが、私の帰国する前に帰って来ていて父の所にも時々訪ねて来たらしい。父も荻原君が好きで、よく手紙を貰ったようだ。父は、もうその頃は年寄で他にいろいろな傾向の新しい彫刻が出て旧弊な彫刻家になっていたが、荻原君は父を担いで、「あんなこまちゃくれた彫刻より先生のが一番いいんだ。」と言ったりして、父も悪い気がしないらしく、「守衛さんは若いけれどもいい。」と言っていた。
私は鑑査を受ける展覧会に出品しないという建前であった。自分が鑑査を受けるなら神様に受けるので、人間などの鑑査を受けるべきではないという言分なのである。私が公の展覧会に出品したのは、第一回の聖徳太子奉賛会の展覧会の時が最初であったが、この時は審査はなく、総裁が宮様で父も出品を勧めるので、老人の首と木彫の鯰《なまず》とを出した。
「老人の首」というのは、此処へ乞食のようにして造花を売りに来る爺さんの顔が大変いいので、段々|訊《き》いてみると昔の旗本が落魄《おちぶ》れたのであった。それを暫く来て貰ってモデルになって貰ったが、江戸時代の昔の顔をしているのに牽《ひ》かれた訳だ。「鯰」は従来木彫の方では伝統的なものを何の考もなく拵えていたが、其の頃から私は木彫のああいう風なやり方を始めて、木彫に本来の自覚を持とうとしたのである。その頃鯰の他に魴※[#「魚+弗」、第3水準1−94−37]《ほうぼう》を拵えたが、「魴※[#「魚+弗」、第3水準1−94−37]」は武者小路さんたちが中心でやった「大調
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