和展」に出した。それらの木彫を初めやりかけて父に見せた時はそんなに思わなかったらしいが、二度目に見せた時は父はびっくりしていた。父の驚き方は私の意図したところとは違うのであるが、父は刀がよく切れるようになったといって驚いたのである。例えば鯰の反っている外側の凸部の丸みは一刀でやれるが、反対側の横腹の凹部は一と当てで削ることは出来ない。途中で木目が変って逆目になるが、無理と知ってやって行くと逆目の所から割れて了う。どうしてもそれから先を刀を逆に使わなければならぬから一刀に彫れない。それを自分で考えて一刀でやって了った。父はそんなことに驚いたので、結局技術方面でどうしてやったかと思ったに過ぎない。その時に父は「此処の所に貝殻を彫って添えると面白い置物になる。」など言い言いしたものである。然し彫刻の彫り方については、他の人の全然気のつかない所を解ってくれた。
それから桃、栄螺《さざえ》などを彫った。桃は彫刻としては一種の彫刻性の出せる果物だと思ってやったのだが、本当に解ってくれる人は少いだろうと思う。桃の天を指しているという曲線が面白いと思って彫ったのだが、彫り方も切出し一本でやったので、切出しの面白さを桃と調和させようとしてやったのである。
栄螺も彫ったが、それを父に見せたら「この貝はよく見たら栄螺の針が之だけ出ているけれど一つも同じのがないね。」と言った。実はその栄螺を彫る時に、五つ位彫り損って、何遍やっても栄螺にならない。実物のモデルを前に置いてやっているが、実に面倒臭くて、形は出来るのであるが、どうしても較べると栄螺らしくない。弱いのである。どうしてもその理由が分らないので、拵え拵えする最後の時に、色々考えて本物を見ていると、貝の中に軸があるのである。一本は前の方、一本は背中の方にあって、それが軸になっていて、持って廻すと滑らかにぐるぐる廻る。貝が育つ時に、その軸が中心になって針が一つ宛《ずつ》殖えて行くということが解った。だからその軸を見つけなければ貝にならない。成程と思って、其処をそういう風に考えながら拵えたら、丸でこれまでのと違って確《しっか》りして動きのない拠《よ》り所が出来た。それで私は、初めてこういうものも人間の身体と同じで動勢《ムウヴマン》を持つということが解った。それ迄は引写しばかりで、ムウヴマンの謂《いわ》れが解らなかったが、初めて自然の動きを見てのみこまなければならないということを悟った。
それ以来、私は何を見てもその軸を見ない中には仕事に着手しない。ところがその軸を見つけ出すことは容易ではない。然し軸は魚にも木の葉にも何にでも存在する。それを間違わずに見つけ出すのは、なかなか大変ではあるが、結局自然の成立ちを考え、その理法の推測のもとに物を見て、それに合えばいいし、そうでない時には又見直したりしてやるのである。木の葉一枚でもそれを見ないでやったものは、本当の謂《いわ》れが分らないから彫ったものが弱い。展覧会などにも、そういう弱い作品が沢山あるが、形は本物と一寸も違わないけれども、その形の拠り所が分っていないから肝心のところで逃げていて人形のようになって了う。人形と彫刻とは丸で格段の違いである。その違う製作的根拠をはっきりと気がついたのはその栄螺の彫刻の時だ。
然し彫刻にしようとする自然物の中にも彫刻性のあるものとないものとがある。例えば果物にしても桃は彫刻になるが林檎《りんご》はならない。魴※[#「魚+弗」、第3水準1−94−37]や鯉は彫刻になるが、鯛はならない。お目出度いものだから鯛はよく彫られるが、単独に彫刻の題材にはならない。いろいろな物の中から彫刻性を多分に帯びているものを選び出して、それを題材とするのでなければ無意味である。それが解らないで無茶苦茶にやるのは、未だ彫刻が解っていないのだと思う。一寸見ると摘《つま》んでみたい位に本物らしく出来ている果物の彫りものとか、よく鮭を一枚一枚|鱗《うろこ》を拵えて本物のように彫ってあるものなどがあるが、ああいうのは本当の意味の彫刻ではなく、根附彫のような細工物になって了う。私なら鮭の頭だけ拵える。鮭も首だけにしてみると、彫刻的組立が出来て来る。
又このこととは反対に、人間の力で彫刻的に表現されたものを、更に二重に彫刻として表現することも無意味だと思う。例えば能の舞台の姿は、一方から言うと、空間に於ける彫刻的な感銘を意図し振舞われている姿であるから、一種の彫刻的表現が大きな要素になっている。それを更に彫刻に拵えることは無意味だと私は思っている。
私の乏しい作品も方々に散って、今は所在の解らないものが多い。「魴※[#「魚+弗」、第3水準1−94−37]」など相当に彫ってあるので、時々見たいと思うけれども行方不明である。何か寄附する会があって、そこに寄附して、その会に関係のある人が買ったという話だったが、その後平尾賛平さんが買ったという事も聞いたが、どうなったか分らない。「鯰」は房州の方の人が持っている。これは或る綴錦《つづれにしき》を織る人があって、その人が困っているので寄附して、その人のパトロンのような人が買った。尤《もっと》も鯰はあと二三尾彫っていて、その行先は分っている。一つは越後長岡の松木さんという人が持っている。「桃」は長谷川時雨さんが買った。お蚕の時に使う栃の木で刳抜《くりぬ》いた盆にのせると非常によくはまって、丁度お釈迦《しゃか》様の甘茶の時のように中に小さく桃があって面白いと思ってそれに載せて出したが、その盆にヴェルレーヌの詩句を彫ってあったのを面白く思って買われたのか、然し盆は売る積りではなかったから長谷川さんは弱られたらしい。第二回の大調和展に出した「鷽《うそ》」は野口米次郎さんの親類の人が買った。又後に出した「石榴《ざくろ》」は京都の方の好事家が持っている訳だが、此などは後で一寸借りたいと思って面倒な思をした。手放して了えば、自分の作ったものでも自由にならないから、愛着のある作品を人手に渡すのは厭《いや》になる。貧乏の最中だから仕方がなかったけれども、智恵子はそれを惜しがった。「蝉」は大分拵えたが、之も行先が分らないし、「栄螺」も全然分らない。「栄螺」は父から金を貰うので、百円位で買ってくれと言ったら、父は面白いから預っておこうと言ってとってくれた。そしたらある百貨店の美術部の人が父のところに来て、何百円とかで売れたといって父がその金を持って来てくれたことがあった。父は私のものがそんなに高く掛引なしに欲しい人があって売れたということでびっくりして居た。それ迄は私の仕事など「勝手なものを拵えている。」などとよく人に言っていたから、無論値段などありはしないと思っていたのである。
首は可成作ったが、半分以上は父の仕事の下職のようにしてやっていたから、半ば父の意志が入って居り、数は沢山拵えたけれど自分の作には入らない訳だ。私が土で原型を拵えても、それを鋳金にしたり木彫にうつしたりする時に無茶苦茶に毀《こわ》されて了う。法隆寺の佐伯さんの肖像なども父の名で私が原型を拵えたものだが、出来上ったものはまるで元のものとは違う。佐伯さんの顔は丁度お婆さんみたいな柔和な顔でそれでいて非常に強いのである。坊さんは案外覇気のあるものだけれどもそれが無く、如何にも精神の深いものが出ている。ああいう顔を自分勝手に拵えたらいいだろうと思った。私が自分勝手に作った首はそれに較べると僅かである。大調和展の二回目に、アトリエ社の記者をしていた住友君の首を出したが、その首あたりから幾分か自分らしい彫刻が出来るようになった。黄瀛《コウエイ》の首もその前後の作品である。黄瀛は日本で中野の通信隊に入って伝書鳩を習い、私のところにも来ていたが、支那に帰って伝書鳩の隊長になり、中佐か何かになって喜んでいた。ところが漢奸《かんかん》だというので漢口の附近で一網打尽に殺戮《さつりく》されたらしい。漢口の山の中に伝書鳩の箱や設備が残っていたということだが、全然それきり消息がない。南京で居た町も調べて貰ったが、其処も全然形跡もない。当人もそれを恐がって手紙もくれるなと言っていたのだが――。(終戦後彼の無事だった事が分った。)
黒田(清輝)さんの首もその頃作った。その後で、松戸の園芸学校の前の校長の赤星さんのを拵えたが、これは自分として突込めるだけ極度の写実主義をやってみたもので、一寸ドナテルロ風な物凄い彫刻である。松戸の学校の庭に建っていたが、此度供出した。それから女子大の成瀬仁蔵先生を拵えたが、これは暇がかかって十七年かかった。私はその人に実際に会ってみないと仕事が本当に行かない。成瀬さんにお目にかかったのは亡くなる直前で、首を作る為に行ったのでは困るからというので、お見舞ということにして病床でお目にかかっただけだから印象が薄かった。後は写真と学校の女の先生に会って聞いただけでやった。後には、成瀬さんが始終やらせていた理髪師を呼んで来て、頭の恰好《かっこう》を見て貰ったりした。女の先生の印象はいい加減なものだったが、理髪師の方は「此処のところが尖《とが》っていた。」とか、非常にはっきりしていた。序《つい》でがあって一両年前女子大で見たけれども、作としては味いがなくて余りよくない。
智恵子の首は随分拵えたし、父の首も可成作っている。中には地震の時に毀《こわ》れたものもあるし、自分で毀したものもあるが、大体は残っている。久しくやっている団十郎の首は、石膏《せっこう》でとるつもりで始めたが、今は石膏がないから泥で固めて了おうと思っている。初めから塑像にするつもりならば、それはそれで味いの違うものが出来ると思っている。私の作ったものには首位の程度で、大きいものはない。これから大きいものを始めようという時に、材料などが無くなっているけれども、私の制作其のものに就ては、此からが本当の積りである。その為に今迄いろいろ蓄積し準備をして来た筈であるから。
わが国の彫刻の歴史は、世界に誇示するに足る伝統を持っている。われわれはその秀れた伝統を正しく継承し、それをわれわれの新しい意味に於て発展させねばならぬ。
日本の彫刻史中では、近い頃から言えば明治大正の時代では矢張荻原守衛がいいと思う。江戸時代は周知のように此と言ってまともに此こそ彫刻だというものはないが、彫刻の技術方面の伝統を繋《つな》いで来たことは確かである。それは唯職人としての伝統を保って、当人達は無意識でただ腕を競ってやっていたのだけれど、その中に含まれているものが矢張彫刻の本質からでなければならぬものがあって、それを絶やさず、どうやら繋いで来た訳である。宮彫師だの彫金の方の人達がそうであり、又根附彫や仏師などの中にもそういう人達はいた。又一方には民間で拵えた木像が多く、此は名も知れないようになっているが、その中にはどうかして偶々《たまたま》いいものがある。又恵比寿様とか大黒様とか、そういうものの中にも万更棄難いものもないわけではない。非常に片寄った畸形《きけい》なものだけれど、そういう中からいいものを見つけ出して、それを棄てずに純粋にして大きくしなければならぬと思う。
然し彫刻としてむきになって立向うというものは、どうしても鎌倉時代あたりに行かなければならぬ。鎌倉では矢張運慶一派のものに見るべきものがあるが、ただ鎌倉のものは多少俗だ。然し運慶の無著禅師などは殊に立派であり、仏でも大日如来などはなかなかよい。矢張古いものを相当に研究しているし、それにその当時の溌剌《はつらつ》とした現世を見る眼が肥えて来ているのが表れている。ただどうしても時代のせいで、古いものから較べると俗気が入っているけれども、之は止むを得ない。それからこの時代は彫刻を拵える上の意匠が豊富になっている。此は彫刻について当時の彫刻家が自由に考えるようになった結果だと思う。
平安朝では皆の感心するようなものは矢張私もいいと思う。神護寺の薬師は全くいい。特殊なもので、ああいうものはあれだけぽっつり在るのだけれど、いろいろな方面から考えてあ
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