回想録
高村光太郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)訊《き》きも

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)近所|界隈《かいわい》

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(例)※[#「赭のつくり/火」、第3水準1−87−52]《に》え
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   一

 私の父は八十三で亡くなった。昭和九年だったから、私の何歳の時になるか、私は歳というものを殆と気にとめていない。実は結婚する時自分の妻の年も知らなかった。妻も私が何歳であるか訊《き》きもしなかった。亡くなる五六年前に一緒に区役所に行って、初めてその時妻の歳を知ったが、三つ位しか違わぬことが分った。私は現在目の前にあるものを尊しと思う。昔どうだったというようなことは全然自分の考に附き纏《まと》わない。良ければなおいいし、悪くてもそれが現在良ければいい。そういう風だから、自分の過去を振返って、自分の行跡を解剖し、幾つまで何々が好きで、幾つの時にそれを清算してそれからこういう方面に切込んで行ったなどということを考えるのは煩い。だから考えたことはない。自己解剖など私にはさっぱり興味がない。そんな風で、この頃よく以前の歳を訊かれることがあるけれども、よく覚えていないようなわけである。
 日記もつけたりつけなかったりである。生涯のうちでも一番緊張して重要な時は、日記などつける余裕もなく、従って後から一番知りたいと思うような時期の日記が欠けている。
 又言うまでもないことだが、吾々《われわれ》の記憶というものも本当の事実に正確であるかどうかも甚だ覚束《おぼつか》ない。過去の事実を屡々《しばしば》記憶のうちに喚《よ》び醒《さま》しているうちに、吾々は回想の中にその事実を次第に潤色し、いつかそれが本当の事実だと記憶して了うような場合も少くない。子供の時分から私は屡々父の回顧談を聴いたが、父は同じ話を何度も繰返しているうちに、その細部などいつか変って来ていることもあった。話の調子に乗って語っている間に、実際に父の記憶がそういう風になって来ていたのであろう。実際、歴史というものは、そういう堆積《たいせき》なのかもしれない。無数の事実の中から一種の創造が行われているわけなのである。

 父は子供の時、十二で浅草清島町の裏長屋から仏師屋へ奉公に出た。清島町の家は河童橋の通にあった。変な蝮屋《まむしや》のあるような小さな露地を入った九尺二間の長屋のずっと続いている暗い家で、近所|界隈《かいわい》はそういうものばかりのようであった。其処で祖母が父を教育してそだてたのである。
 私の家の先祖については、昔のことは分らない。父の言っていたのを受け継ぐより外ないが、鳥取の士分で、はっきりはしないが文化あたりに江戸に来て町人になった。髯《ひげ》の長兵衛と言われて、父のように髯が濃かったらしい。唯そんなことしか遺っていない。
 祖父は気の毒な人で、子供の時から非常な苦労をした。その父親、つまり私の曾祖父《そうそふ》にあたる人は、嘉永にはならぬ位の徳川末期の時分で、丁度その当時流行した富本節が非常に巧く、美声で評判になったものらしい。それで妬《ねた》まれて水銀を呑まされたとか言うことだ。その為に声は出なくなる、腰は立たなくなる、そのせいかどうかわからないが一種の中風になった。祖父は小さい時からその父親の面倒をみて、お湯へでも何処へでも背負って行ったと言う。商売の方は魚屋のようなものだったらしいが、すっかり零落し、清島町の裏町に住んで、大道でいろいろな物を売る商売をして病気の父親を養った。紙を細かく折り畳んだ細工でさまざまな形に変化する「文福茶釜」とか「河豚《ふぐ》の水鉄砲」とか、様々工夫をしたものを売った。そんな商売をするには、てきやの仲間に入らなければならぬ。それで香具師《やし》の群に投じ花又組に入った。そのことは、父の「光雲自伝」の中には話すのを避けて飛ばしているが、――そうして祖父は一方の親分になった。祖父は体躯《たいく》は小さかったが、声が莫迦《ばか》に大きく、怒鳴ると皆が慴伏《しょうふく》した。中島兼吉と言い、後に兼松と改めたが、「小兼《ちいかね》さん」と呼ばれていて、小兼さんと言えば浅草では偉いものだったらしい。祖父の弟で甲府に流れて行って親分になった人があるが、これは非常に力持ちの武芸の出来た人で、その弟がついているので祖父の勢力が大変強かった。喧嘩《けんか》というと弟が出て行った。江戸中の顔役が集まって裁きをつけたりしたことがあったと言う。だから私は子供の時分、見世物は何処へ行っても無代《ただ》だった。その時は解らなかったが、後で考えるとそのせいだったらしい。よく兄哥連《あにいれん》に背負われて行ったものだ。喧嘩の仕方なども、祖父から聞いて知っている。然し祖父が足を洗って隠居してからも連中が祖父のところに出入するのを、父は実に厭《いや》がったものだ。祖父は丁髷《ちょんまげ》をつけて、夏など褌《ふんどし》一つで歩いていたのを覚えている。その頃裸体禁止令が出て、お巡りさんが「御隠居さん、もう裸では歩けなくなったのだよ。」と言って喧《やかま》しい。そしたら着物を着てやろうというので蚊帳《かや》で着物を拵え素透《すどお》しでよく見えるのに平気で交番の前を歩いていた。谷中に移ってから父の住んでいる家の向う側の長屋を隠居所ということにして、夏の夕方など、長屋の格子の向うは障子になっていたが、其処で影絵を始めて評判になり、随分人が集まるようになった。祖父は声が自慢で、大津絵などうまく、影絵をやりながら唄ったりして、そういうことをやるのが楽しみのようであった。ものにこだわらない明るい気性で、後で考えると私共を実によく労《いたわ》ってくれたことがわかる。
 祖母は、私の生れた明治十六年に亡くなったが、なかなか偉い人のように思える。埼玉県の菅原という神官の娘で手蹟なども遺っているが、字も立派だし、神官の娘だけあって歌も詠むし、方位だとか暦のことは非常に委《くわ》しく、その書き遺したものなど見ると相当教養のある人だったように思われ、香具師の女房などには不思議な位である。人の話では何でも誘拐されて祖父の許《もと》に来たと言う。そして後妻になって祖父を扶《たす》け、それが祖父を感化して了った。祖父はもともとそれに生れついた人ではなかったから、祖母を貰ってからは足を洗おうとしていたらしいが、どういうきっかけか知らないが兎に角足を洗って、私の父が奉公の年季が明けた頃にはもう素人で、それから隠居して、父が当主になったのである。
 父には兄があって、それは先妻の子供で後まで中島と言っていたが、相当うまい大工であった。父は金華山のお寺に貰われてゆく筈であった。金華山にゆくことになったのも、神仏|混淆《こんこう》の時分だから、多分祖母の縁故からだと思う。ところがそれで頭を結いに行ったら、床屋の親爺が「そんな所へ行くのは惜しい。丁度|丁稚《でっち》を頼まれているから」というので、際どいところで仏師屋の高村東雲のところへ行くようになったのである。十二の年から十何年か勤め、その後で御礼奉公を二三年やって廿幾つかで年が明け、それから独立したわけだ。それは当時の為来《しきた》りとして決っていたことだ。丁度それが明治の初めに当って徴兵制の敷かれた頃で、跡取りの長男は兵隊にいかないでもよい制度だったから、その当時の風習に倣って戸籍上名儀だけだったが、師匠の妹の高村エツという人の養嗣子となり、以後高村幸吉となった。そして父は漸《ようや》く西町三番地に一家を持ち、祖父も前述のように隠居をして清島町を引上げて父と一緒になった。
 西町の家も文字通りの九尺二間の長屋であった。家の前を上野広小路の方から流れて来る細い溝が鉤《かぎ》の手になって三味線堀に流れていた。少し行ったところが佐竹原《さたけっぱら》という原っぱになっていて、長屋の裏手は紺屋の干場になっていた。その佐竹原に、祖父の元の仲間が儲仕事《もうけしごと》に奈良の大仏の模品を拵えて、それを見世物にしたことがある。その仕事の設計が余り拙いので、父は仏師だからつい、心は丸太で、こういう風に板をとりつければよいというようなことを口出ししたのがきっかけとなって、その仕事に引きずりこまれて監督になったらしい。大仏の中は伽藍洞《がらんどう》で、その中に階段をつけ、途中に色々な飾りものがあって、しょうつか婆が白衣で眼玉が動いていて非常に怖しかったのを覚えている。大仏の眼玉や鼻の孔《あな》から眺めると、品川のお台場の沖を通る舟まで見えるということであった。之が父の設計で余り岩畳に出来ているので、後で毀《こわ》すのに困ったらしく、神田明神のお祭の時にひどい暴風があっても半壊のままだったらしい。父がそんな見世物に手を貸してやっていたことなど、幸田露伴さんの小説の中にも出ているが、然し露伴さんは谷中に来てからの知合で、その頃はもとよりそんな方面の方とはつきあいはなかった。
 歳末になると、父は車を引張ってお酉様《とりさま》の熊手を売りにゆく。いろんな張子を一年かかって拵え、家の中を胡粉《ごふん》の臭いでいっぱいにし、最後に金箔《きんぱく》をつけて荷車に積んで売りに行ったものだ。そんなことが二三年続いたと思うが、つまり仏師の仕事だけでは食って行けなかったのだ。だがそうしている間に、彫刻家として認められる機会がちょいちょい出て来た。父の仕事振りを偶々《たまたま》通りすがりの石川光明さんがよく見ていて、その世話で展覧会に出品するようになった。矮鶏《ちゃぼ》などは、その頃拵えたものだ。あの矮鶏は非常によかったと今でも思う。私は五つ位の時だったが、矮鶏の鶏冠《とさか》の円いものなどうまく本当のように出来るものだというようなことを感じて見ていたことを微かに覚えている。それから皇居の御造営があって、皇后様の御部屋の狆《ちん》なども拵えた。
 然しその頃の彫刻家は――彫刻師《ほりものし》と言ったが――今のような世間との交渉は全くなく、鑑賞家から展覧会を見て仕事を頼まれるというようなことは殆となかった。その当時、父のところには、若井兼三郎、外山長蔵、金田兼次郎、三河屋幸三郎などという貿易商が頻々とやって来た。弁慶という独逸《ドイツ》人(父は発音が似ているとそんな風に言って了う。)なども、横浜の商会の手代でちょいちょい来た。父は、食う為には純粋に自分のやりたいものなどなかなか出来ず、マドロスパイプ、インクスタンド、洋傘の柄、ナイフ、時計台、鏡の縁だとか、そういうものの鋳ものにする時の木型を無数に彫った。ひょっとこの口が吸口になって鉢巻のところに煙草をつめこむパイプとか、足長手長を組合せて鏡の縁にするとか、蟹《かに》の鋏《はさみ》をペン置きにするとか、西洋人の気に入りそうな悪どいものだが、そんなものを沢山拵えた。一つが十銭か二十銭位だったから一円貰う為にはそんなものを可成拵えなければならぬわけだ。材はよく樟《くすのき》を使っていた。父の仕事は実に速かったが、そういうものでも投げやりには出来ぬ性だったから、合いはしないのだけれど、食べられぬからそんな仕事をするより外なかった。当時|牙彫《げぼり》がよく横浜に出て、非常に儲かったものだそうだが、父は自分は木彫を習ったのだからと言って遂にやらなかった。又その間に、鋳流しの蝋型《ろうがた》を作る仕事をした。
 その頃、父のところに出入していた人は、そういう貿易商などが主で、石川光明先生なども来られたらしいが、面立をはっきり覚えていない位である。仏師の方は、父のところに来るということは少なかった。父の相弟子で林美雲という人があったが、この人は東雲が亡くなってから父を師匠代りにして西町によく来ていた。和達さんというアンチモニーの匙《さじ》を初めて拵えた半分商人で半分職人の人がよく来て、家では歓迎した。又錺半さんという錺屋《かざりや》の職人がよく出入りしてい
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