たが、非常によい腕をもった人で、観音様の御堂に上っている絵馬のようなお供えの額を作って、その小さな一つを今でも私は父に貰って持っている。それは何でもないように見えていて、難しい仕事だ。そんなような職人との交際は他にもまだ沢山あったと思うが、東雲の亡くなった後は仏師の方はもう縁が切れたからであるか余り来なかった。
 丁度憲法発布の頃だから明治廿二年、西町から仲御徒町三丁目に引越した。その頃父がひどい病気をした。家中で、「ことによると駄目かもしれない。」と言っているのを心細い思いで聞いていたのを覚えている。癒《なお》ってからも一年位手が震えて父は何も仕事は出来なかった。それで仲御徒町の時の貧乏は実にひどいものだった。山本国吉(後の瑞雲さん)が一所懸命父の代作をして、それを三幸商会に持って行き、其の日の薬代などにしていたらしい。私も母に連れられて三幸商会に品物を納めに行った記憶がある。
 母は、今日で言うと小舟町辺の金谷という穀問屋に厄介になって居た人の娘であった。初めわかと言い、後にとよと言った。大変不幸な人で、私の祖父が余り気立がいいので見込んで倅《せがれ》の嫁にと話をし、半ば母を助ける意味で父のところに来ることになったらしい。だから母は父にそういう境遇から救われたわけだ。母はまるで自分というものを無くして父を立て、實に忠実に父に尽した。こういうことは、母だけは実際偉いと私は思っている。典型的な日本の母親のように思える。貧乏な中をどんな苦労でもしたものだ。母は学問はないが悟りは非常によく、字などもお家流だが大変上手であった。祖父は自分が懲りているので、父の代になって家庭に鳴物と勝負事は一切入れなかった。母は長唄と下方の笛が得意であったが、そんなものは皆|放擲《ほうてき》して了っていた。ただ母は昔からの為来《しきた》りを非常に尊び、年中行事に委《くわ》しく、それをきちんきちんとやった。未だにその習慣が思い出されると悪くない。
 些細《ささい》な生活の端くれのようだが、矢張そうすると一年がはっきりし、一月から十二月の終まで、いろんなことが繋《つな》がって生活そのものに非常に思出がつく。半分は迷信みたいなものがあって、晦日《みそか》には神主がやって来て荒神《こうじん》様を拝んで家中|御祓《おはらい》をして帰るとか、そんなことでもいろいろ家庭の情趣として私の心に残っているのは母の御蔭である。母は之を非常な貧乏の中でやっていた。竹筒をぶら下げておいて、一銭二銭のお金を入れ、月末に家賃になるだけ入れなければ家賃が払えないような貧乏であった。後に、父が美術学校の先生になってから、やっと生活が当り前に出来るようになったが、それからは学校の先生同志とのつきあいもあり、お弟子もふえたけれど、父は祖父の気性を承《う》けて派手なことが好きだったから、母は決して楽ではなかったらしい。谷中に来てからは、学校の先生になったというので、父を「先生」と呼ぶことにして通し、父が学校から戻ると家中の子供から弟子まで集めて玄関に迎えるようにしたので、初は私達子供は面食《めんくら》って了った。その頃は相当な学校の先生というと歩かないで皆車に乗った。俥屋が「お帰り」と大声で言うと、ずっと前に並んで出迎えて弟子達にも先生というものの位をつけさせたのだ。先ず威儀から始めて、以前の職人を直そうというのであった。あらゆる父の欠点は、母がすべて蔭になって外に現れないように尽し、それは当時はあたり前のような事に思えたが、その当り前のことがなかなかの事だということが、母が亡くなってみるとはっきりと分った。
 憲法発布の頃は、もう美術学校は出来ていた。そして竹内久一先生が一番先に彫刻の先生になっていたが、竹内先生が無理遣りに父に先生になれと言って交渉して来た。父は、そんなものはおかしくてなれないと断っていたが、岡倉さんに呼出されて懇々説諭されて漸《ようや》く引受けたらしい。天心先生がある時、不意に遊びに来られた時のことを覚えている。何處かの帰りで、既に半分酔ってやって来られ、家では岡倉さんは何でも酒がなくてはと言うので急に買いに行くやら大騒ぎをした。夏だったから座敷が開放してあるところへ、ガラスのホヤのついている蝋燭立《ろうそくたて》を二つ許《ばか》り並べた真中に床の前に胡坐《あぐら》をかいて、実にいい機嫌で可成夜更けまで何か滔々《とうとう》とやっていた。天心先生はお酒をのむと相当|呂律《ろれつ》が廻らなくなるので何を言ってるのか聞きとれないが、聞きとれてもどういう意味か子供の私には解らなかったろうから、既にその時に記憶はない。細い目を据えて、私の方をジロリジロリ見ている様子が非常に頭に残っている。何か愉快な豪傑みたいな気がして、普通の人とは違った歴史上の人が来て何かやっているような気がして、印象によく残ったのであろう。父は以前はよく酒を飲んだが、その当時は殆と飲まなくなっていたので、無理に奨《すす》められ仕方なく時々盃を口にしている様子が子供ながら解るので、私は厭《いや》な気持というのではないが非常に荷厄介なような感じで、早く帰ってくださればいいと思った。随分長時間彫刻のことやいろいろ芸談のようなことを語っているらしいが、父は仏師屋時代の習慣かもしれぬが「御意に御座ります。御意に御座ります。」と言っているので、私はあんなことを言わなければいいのにと思った。
 美術学校の岡倉さん時代は、先生というものは一年を通じて生徒の面倒をみることが出来れば他に何をしても構わないという状態で、きちんと学校には来ても来なくてもいいということで、先生は学校で多くお手本となるものを拵えていた。又政府の関係団体などから始終記念像等の註文が来る。先生はその製作に従事していれば、それが教授の一つの実例になって、生徒は見ていていろいろ学ぶ。例えば父が仕事に与った楠公の銅像の時は微かにしか覚えていないけれど、西郷隆盛の銅像の時はよく知っているが、美術学校の中に臨時に小屋を拵えてやっていた。楠公の像の木型が出来て、それを二重橋の内に持って行って飾りつけ、先ず明治天皇が天覧になった。その後で私共も見たが、父が全責任を負っているというので塩を撒《ま》いて行ったことを覚えている。兜《かぶと》の前についている剣に楔《くさび》を入れることを忘れて、陛下が突然地面にお降りになって、ぐるぐる像の周囲を御廻りになりながら天覧になったが、その時にその剣がぶらぶら揺れるので、それが落ちたら切腹ものだったと言っていたのを記憶している。あの像は木型だけは出来たが、鋳金が技術的に出来なかったので、岡崎雪声さんが外国を廻って鋳金の方法を研究して来られた。あれだけ拵えるのは、あの当時には大変なことだったのだ。又後藤貞行さんなども、あの像に関係したが、ああいう状態に馬がいる時は、ああいう具合に馬は尻尾を上げないと非難する人があって、それを反証する為に後藤さんは自分で馬を駆けさせてグッと引いて急に止った時の姿勢で、馬が尻尾を上げるということを実地に証明したりした。後藤さんは馬の解剖も委《くわ》しいし、馬のことは馬学的によく知っている訳だが、原型の彫刻的気持は解らないものだから、父は困って「脚のところをもう少し曲げたらよくはないか。」と話すと、後藤さんは、「馬の其処はそんな風に曲りません。」という。そうすると父は一遍に参って了って、「それじゃあ仕方がないが、何とか曲るようになりませんか、彫刻には勢いがなくてはいけないのだから、何とかして下さい。」などという談判をよくしていた。
 西郷さんの像の方は学校の庭の運動場の所に小屋を拵え、木型を多勢で作った。私は小学校の往還《いきかえ》りに彼処を通るので、始終立寄って見ていた。あの像は、南洲を知っているという顕官が沢山いるので、いろんな人が見に来て皆自分が接した南洲の風貌を主張したらしい。伊藤(博文)さんなどは陸軍大将の服装がいいと言ったが、海軍大臣をしていた樺山さんは、鹿児島に帰って狩をしているところがいい、南洲の真骨頂はそういう所にあるという意見を頑張って曲げないので結局そこに落ちついた。南洲の腰に差してあるのは餌物を捕る罠である。樺山さんが彼処で大きな声で怒鳴りながら指図していたのを覚えている。原型を作る時間は随分かかる。小さいのから二度位に伸ばすのである。サゲフリを下げて木割にし、小さい部分から伸ばしてゆく。そして寄木にして段々に積み上げながら拵えたものだ。山田鬼斎さん、新海(竹太郎)さんなどいろいろな先生が手伝っていた。その製作の工程には、それに準じて様々な仕事がある。削る道具も極く大きいから各種の工夫のあるものが要るし、大工に属する仕事が沢山ある。そういうのを生徒が毎日見ながら覚えることは生徒の為にはなったろうと思う。日蓮の像も竹内先生が矢張学校の中に大きな小屋を建ててその中で拵えたのだ。鋳金を失敗して、日蓮の胴体に大きな穴があいて、私等はそこから出たり入ったりして遊んだ。あれは幾度やってもうまく出来ないので鋳掛けで埋めた。一番よく鋳金が出来たのは楠公の像である。一番|酷《ひど》かったのは、大きいだけに日蓮の像で、桜岡三四郎という人が鋳金を引受けてやったのである。岡倉さんの時代には総て学校が綜合的《そうごうてき》に動いていて、彫刻もやれば大工の仕事も見る、鋳金も見学するという風で生徒の為によかったろうと思う。又学科では彫刻の生徒も日本画等をやった。私等も粉本などを稽古《けいこ》した。大観、春草等の人がいろいろなものを描いた時代を見て覚えている。
 ところが正木さんが校長になってからは、そのようなことはパッタリ止めになって、純粋に学校組織になり、事務の執り方から総てが西洋風になり、制服も洋服になった。それまでは例の闕腋《けってき》である。先生もきちんと時間までに登校し、一定の時間に帰る。官吏服務規定など見せられて、官吏は学校以外で私の仕事をしてはいけないということが書いてあるので、父は驚いて「もう家では仕事は出来ない。」と言い出した。それで暫く家の方に来る註文の仕事は決してやらなかった。そのうちに解釈が違うので、自分の仕事をしてもいいということが分って、「何だ馬鹿馬鹿しい。」と言って又やり始めた。だから、あの時代は父の作は一時途切れている。
 岡倉さんが美術学校を辞める時、父も一旦総辞職と共に学校を出たのだが、暫くして又学校に戻った。岡倉さんは学校の方に残ってくれるようにとしきりに言い、文部省の方で強圧的に残るように言って来たので、どうでもこうでも残るようになったものらしい。私は父が腑甲斐ないように考えて非常に憤慨したものだ。後で父にそのことを言ったら、矢張私達の為だと言った。その方が穏かでいいと言っていた。今考えると、大きい芸術の進路から言えば、何でもないことだが、父が学校に戻ったことを私は実際後々まで遺憾に思っていた。
 父は、私にいろいろ直接に話をするようなことはなく、お客のある時は私にお茶を持って来させるのである。母も心得ていて客のところへは必ず出されたものだ。私は其処に坐って話をきいていた。父は客と雑談を交しながら、或は半ば私に聞かせる積りのような場合もあったようである。私はよく其処へ呼ばれて行って、迷惑を感じて厭になったこともあるし、聞きながら憤慨を禁じ得なかったことも少くない。彫刻界や美術界の受賞の掛引きなど、なかなか弟子達の間にあって、金賞、銀賞の振合がどうだとか、此度はこれで我慢しておけとか、そしてこの次には何を出そうが金賞になることが前から決っているというような、そんな話が交されたことも屡々《しばしば》である。
 又私は父の仕事振りは始終見ていたが、父から直接弟子に講義をするような態度で教わったということはない。親子では、そういうことは変にテレ臭くて出来ないのである。父は、子供に向って講釈するなどというそんな改ったことは特に出来ないような人であった。他人に義理は立てても子供のことなど構って居られないといった方なのだ。却《かえ》って弟子にはなかなか親切に話をしたりした
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