。その時には私は必ず傍に坐り込んで聞いたものだ。恐らく父の方でも私が傍で聞いているということを意識して話していたこともあったろうと思う。
 父は彫刻について「こなし」ということを大事に言っていた。外国の用語だとコンストラクションというようなことに関係するのであろうが、向うの人の言っている言葉では当嵌《あてはま》らないようである。「こなし」が本当に出来れば、ロダンの謂《い》うプランなども自ら出て来る。プランに相当する彫刻上の考は此方にはない。面《プラン》は向うの人の考であるが、然し「こなし」がはっきりゆけば自ら面が出て来る訳である。父などは「こなし」一本であった。彫刻に駄肉があるということが非常にいけないと言う。駄肉があるということは、まだこなせるということだ、牙彫《げぼり》から木彫に入った人の作には駄肉があって、それがいけないということをよく言っていた。石川光明さんの彫刻でも、私達から見ると、その作風のおっとりした良さは寧《むし》ろその駄肉にあるのだが、父流の考え方では、もっとこなしてみたいのである。象牙彫りは目方で値段が出る。石川先生のように非常にいいものは別であるが、普通のものは目方にかけて値段が出るので、職人は成るべく削らないようにして仕事をまとめる。多くは円筒形とか円錐形の中に、出張っているところを成るべく削らないで形を纏《まと》めるのである。従って父のような考え方では駄肉が甚しく目立つのであろう。
 父は又彫刻の「角」を非常に大事がる。之は外国で言う面と同じ根拠で、面をはっきりすると「角」が出来るのだから同じ意味だ。ただ見方が違うのである。後は「肉合《にくあい》」である。勿論これは「こなし」が出来た上での「肉合」でなければならぬ。日本の彫刻性の特色はその「肉合」にあるとさえ言える。このことは昔からそうのようで、例えば刀の目貫とか欄間の彫りとかの良さは純粋に「肉合」の面白さにある。肉の「こなし」方、それが良ければ彫刻は良くなってゆく。それが悪いのは、散漫になったり痩《や》せたりして、つまり真の彫刻性がなくなって了う。こんな風な簡単な仕事の上の合言葉みたいなもので、わが国の彫刻性というものは僅かに伝統を遺して段々伝わって来たのだ。少くとも「こなし」などという言葉は江戸時代から伝わっているもので、恐らく面打なども言っていた言葉であろう。
 父は、「こなし」が過ぎる程こなす人でなければうまくならぬと言っていた。それはものを大きく見て、大きい「肉合」を始めから出来る人だ。さもないと、細かい所ばかり拵えるようになって、ただ締りのない部分だけしか出来ない。そういうのは、室町時代の地蔵様などによくある非常に精巧に出来ているが重苦しいのである。部分を見るとよく出来ているが、全体から見るといけない。そういうのは「こなし」が出来ていないのである。全体の大まかさ、そんな点で上代のものは「こなし」が非常によく出来ている。寧ろ「こなし」だけで、部分は大して問題にしていない。夢殿の救世観音《くせかんのん》にしても、中宮寺の弥勒《みろく》にしても、よほど「こなし」が良く出来ている。
 仏師の出である父は、又「仕上げ」を非常に喧《やかま》しく言ったものだ。仕上げには、普通に仕上げるのと「本仕上げ」というのとあって、本仕上げは父の一生涯のうちにも幾度しかやらぬという位のものだ。仕上げの時には、木目に従って削って木目の自然に添って刀痕《とうこん》が揃ってゆくという風にするのだが、本仕上げになると、刀痕もなくなって了う位に細かに削る。之には独特の削り方があって、ただやっていたのでは出来ぬ。矢張小刀で削るのであるが、普通なら小刀を逆に使わなければ出来ぬところを、非常にむずかしいが特殊の方法で逆目もなしに出来るのである。本仕上げにして猶《な》お肉がいいというのを本当に良しとした。そんな点で中出来のものは一見よく見えがちなものである。父は本当に仕上げてもいい彫刻でなければ駄目だということをよく言っていた。だからロダンの未完成な作品の写真など見ると、「此を仕上げたらどうなるだろうな。」などと言った。私の知っているもので、父が本仕上げにしたものは、浅草の清光寺にある白檀《びゃくだん》の阿弥陀《あみだ》様がその一つだ。七、八寸ある像だが、非常な手間をかけて本仕上げに仕上げたものである。
 昔は、荒彫りをするこなし専門の人と、仕上げ専門の仕上師とがあって、分業になっていた。小作り位までやって仕上師に渡すという風で、全部自分でやれる人は、昔は殆と居なかったらしい。その中で綜合的《そうごうてき》に出来る人がよくなって来るのだ。父の仕事なども、初め父が原型を拵えると、それによって弟子に小作り位までやれるのがいて、それが小作りまでやって来ると、父がそれをうまくこなし、仕上師の方に渡すと奇麗に仕上げる。それを更に又父が刀を入れて生かし、父の作となって世の中に出るのである。だから父から言えば、いずれも不満なもので、そういうやり方のいけないことは充分に知っていたが、そうしなければ弟子達を養っていけなかった。父自身が最初から終いまでやったものも可成あるが、それは数から言ったら一生涯かかって五十点位なものであろう。流石《さすが》にそういう作品は、肉合とか、そういうものに神経が徹《とお》っているから死んだところがない訳で、父のものは父なりにちゃんと出来ているのである。
 いい彫刻があると、父はよく稽古《けいこ》に模刻した。明時代頃のやきものの白衣観音の素晴しいのがあるというので、よそから借りて来て、桜の材か何かで一心に自分で模刻しているようなことが時々あった。六十歳位まではそういうことをやっていて、その点私達も感心した。ただ父の鑑賞眼は専らその彫り方に向けられている。仏像などを見ても、上代のものよりは鎌倉時代のものを見る方を喜ぶ。快慶の仁王などに感心するのである。天平のものなどは、「いいにはいいけれども」などと言っていた。ロダンのものなど、どうしても最後まで感心しなかった。きっともっと仕上げたい気がするのではないかと思う。だから表現されたものなどということは一寸も頭に出て来ないのである。此は止むを得ないことで、父の裡《うち》に保持されていたものは僅かに「こなし」とか「にくあい」とかのわが国彫刻技術の伝統に他ならなかった。
 動物の彫刻など拵える時は、父は必ず実物を飼って写生を沢山した。鸚鵡《おうむ》を拵える時は鸚鵡を、猿を拵える時は猿を飼った。博物館にある「猿」は、シカゴの博覧会に出す為に苦心してやっていたが、なかなかうまく進捗《しんちょく》せず、谷中で荒彫をして、林町に越す時それを運んで、こちらで仕上げた。材は、後藤貞行さんの案内で、栃木県の山を歩いて見つけた珍しい栃の大木だった。相当深い山腹にあったのを切り出して持ち出すのに大変だったらしい。初めは真白な材の筈でそれに白猿を彫ろうという計画だったが、東京に持って来たらそれ程でなかったけれど、栃の木特有のチリチリした特徴があって、それが猿の毛並に合うと言って父は喜んでいた。谷中の家の庭にその材木を置き小屋掛けをしてやり始めたのだけれど、栃の木は固く、非常に逆目の多い木なので、普通の鑿《のみ》ではやれないので、正次さんという正宗系統の非常にうまい刀|鍛冶《かじ》に頼んで、いろいろな特別な鑿を拵えて仕事をしたことを覚えている。始めのうちは、此処と此処はいじってはいけないけれど、他はどうでもいいからどんどん削れと言って私共に削らせた。兎に角太い丸太を或る恰好《かっこう》にこなさなければならぬから実に大変であった。私共はその材の山の上に登って遊んだものだ。父の気持では、猿は日本で、羽をのこして飛び去った鷲はロシヤという見立であった。シカゴの博覧会ではロシヤの館が隣で、矢張アメリカでもそうとったらしい。又今何処にあるのか写真も余り遺っていないが、「山霊|訶護《かご》」という題で、山姥《やまんば》が木に寄掛っていると、其処に鷲が来て、それに対して山姥が山の小動物を匿《かくま》っている態のものだが、これは父が苦しんで一所懸命やった彫刻だった。高さ四尺位あって、写生はなかなかよく行っていたように思う。山姥の肋骨《ろっこつ》や何かのモデルには祖父がなったが、祖父は一所懸命その姿勢をしていたのを覚えている。それと同じ時代に、盲人が杖を持って河を渡っているところの彫刻があるが、これは米原雲海さんが拵えた悪どいものだが、それも父の名前になっている。
 そういう実際には父の拵えたものではないが父の名前になっている作品は大分ある。銅像は私が記憶にない頃からやっていたとみえて、若い頃の八の字|髭《ひげ》姿の松方正義伯のものなど物置に後まで木型があった。木で肖像を拵えるのだから、彫って行って気に入らないと又初めから拵えなおすので同じような首が実にいくらあるか分らない。皆仏様のように首を胴に嵌《は》めこんだものである。肖像で一番印象に残っているのは、平尾賛平さん夫妻の首だ。其の頃にはそういう肖像彫刻は未だ珍しい時代であった。父は原型を拵えてからやるのは始めは嫌いだったけれど、後にポインティング マシンが流行《はや》りだしてからは原型によってやるようになった。
 父は又|御輿《みこし》を拵えるのが好きであった。自分で屋根の反りなどを考え、生地で彫物をつけたものだ。御輿には桑名の諸戸清六という人から頼まれて拵えたものだの、葭町《よしちょう》の御輿などがある。これらはなかなか形がよく出来ていた。
 父と同時代の彫刻家で、個人的には非常に親密だったが、仕事の上で対立していたのは石川光明、竹内久一の両先生である。石川先生の彫刻は、父に言わせると、牙彫《げぼり》風の肉があって、どちらかと言うとこなれが少いと言っていたが、上品でおっとりして、よく人柄が出ているという点で尊敬していた。殊に薄肉がうまく、石川先生は絵の心得があるから煙管《きせる》の筒など彫ると非常に名人で、自分など到底及ばないと言った。竹内先生の方は少し下卑ていると言っていた。矢張、彫刻では石川先生のものに一番感心していたようである。私もそう思う。山田鬼斎先生は、余り世間では言われていないが、非常に腕の出来る人である。腕っこきだけれど、少しガツガツした仕事振りで、品がない。岡倉さんの妹を細君にしていて、非常に強硬な議論家で学校では皆に随分煙たがられていた。私も美術学校の時、何年級かで山田先生の受持であったが、人間は直情で良い先生であった。代表作は此と言って遺っているものは少いが、細かいものが方々に散らばっている。或|蒐集家《しゅうしゅうか》のところで、父の作になっている物に山田先生の作があった位で、一寸似た所がある。矢張刀法が強く、その点一寸父のものと似ているが、衣紋《えもん》の彫方なども全然違い、感じが荒っぽく一見山田先生の特色が出ている。余り仏像を彫らずに他のものを作っていたが、それがあの人の新味となっていた。
 石川先生の家は谷中の真島町だったが、そのすぐ隣が後藤貞行先生の家である。二人の先生は、どういうものか何となしに仲が悪く、年中|睨合《にらみあい》をしていた。後藤先生は元から馬の先生だから二頭ほど馬を持っていて、よく馬の説明をきかせてくれたし、指ヶ谷町の傍にある昔の名高い馬の先生のところに連れていって、馬に乗る稽古《けいこ》をするように私にしてくれた。後藤先生の彫る馬は、大抵身長が一尺か一尺五寸位なもので、それに油絵具で着色して無数に拵えた。彫刻自身としてはとるに足らぬものだけれど、標準的な理想的な馬の形を彫るので、後藤さんの馬を持っているとそういう馬が生れるという迷信のようなものが行われて、東北の馬産地で盛んに後藤先生の馬を欲しがった。馬の活動している様なところは拵えず、静止している標本的な馬の実際の雛型《ひながた》を拵えようというつもりだったらしい。今でも東北に行ったら、その作品は沢山遺っているに違いない。後藤先生は又、当時としては珍しい写真の技術の出来る人で、非常に重宝がられた。ある日、
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