ている。少年の頃、私は寝ていてよく笑うので、気味悪がられた。隣りに寝ている祖父が揺起して、ものが憑《つ》くのだからと言って九字を切ったりしたことがある。子供から段々青年になる前の身体の衝動だろうと思うが、うとうとするとおかしくなって、自分でもその声で目が醒めるのだけれど、それが非常に凄く聞えて、周りの人は怖がった。然しそういう雰囲気の中でも一方下らぬ迷信のようなことで、決して家に入れないものがあった。
 仲御徒町の時分だが、コックリさんというのが流行って、講中のようになっていて毎晩のように近所の家にその集りがあった。あれは人心動揺する時に始るもののようだが、然し私の家では父も祖父も決してそれを家に入れなかった。そのことは、祖父の偉いところで、そういうものは駄目だと言っていたが、あのような事を家に入れなかった事は、私たちにとって非常によかったと思う。
 さくという一番上の姉は、明治廿五年に十六で亡くなった。非常に悧口《りこう》な子だったと家の人達は言っている。家では鳴物を禁じていたけれど、姉を仕込むようになってからは少し位何か出来なければいけないというので長唄を教えはじめたが、姉は一向にうまくない。音曲は祖父はうまかったが父は何にも出来なかったし、私もてんで駄目である。小学校の時に唱歌を教わって、帰って家で歌うと怒られた。そういう中で育ったせいか、曲そのものは解るし、音も頭の中に入っているが、声が出ないのである。だから小学校の時は、先生が弱ってオルガンを弾かせてやっと及第させた。青年になってからも、本郷の中央会堂の椽《たるき》の下のところでやっていた酒井勝軍のもとに通ったりして、発声の稽古《けいこ》などしたが、私には酒井勝軍も驚いた。音は知っているが、それを出そうとすると馬鹿に大きな変な声が出るものだから、酒井勝軍も弱って、君は後でやろうなどということになった。姉も駄目なので、母は「この子は女のくせに三味線がいじれない。」といって、変だと言っていた。そして細工物が好きで、画を描いたり、そんな方へばかり行って了うので、父が気がつき、西町に居た時に十歳前後で画を習わせ初めた。師匠は狩野寿信という人であったが、狩野派のやり方のよいことは、稽古の時に決して悪い材料を使わせないということである。悪いものを使って描いていると上達しないことは事実だ。稽古だからと言って決して悪い材料を使わせないことは、確に立派な方法である。父はその為、貧乏な中に姉に与える材料を買うのに苦労した。姉は絵を習い出すと、めきめきうまくなって、師匠の言うことは眷々《けんけん》服膺《ふくよう》して、熱心に通った。実に師匠思いで、先生から貰ったものは紙一枚でも大切に蔵《しま》って記念にしていた。絵は今遺っているものなど見ても子供とは思えぬような、なかなか確《しっか》りしたものを描いていて、その頃の展覧会などに出して賞を貰ったりしている。冬の日、紫のお高祖頭巾《こそずきん》を被《かぶ》って、畳紙《たとうがみ》や筆の簾巻《すだれまき》にしたのを持って通ってゆく姿が今でも眼に残っている。観音経を覚えて、上野の暗いところを通る時にはそれを誦《ず》しながら歩くと恐くないと語っていた。非常に親思いでもあって、その頃父は丁度四十二の厄年に当って、学校で梯子《はしご》から落ちて肋骨《ろっこつ》を折って怪我をしたり、シカゴ博覧会に出す猿を彫っていてうまく行かなかったりするのも厄が祟《たた》っていると思い、父の身代りになるようにと不動様に願をかけた。それで、不図病気になって、今で言う肺炎になって亡くなる時も、本当に父の代りに死ぬのだと思って喜んで死んだ。死ぬ八日前まで日記をつけているが、最後の所は震えて点々になって読めない。その日記が二冊残っているが、それを見ると全く大人で、子供とは言えない気がする。写真も残っているが、面ざしがどこか樋口一葉に似ている。
 父は姉の死によって衝撃をうけ、非常に落胆して悲しみ、その家に居るのにさえ堪えられなくなった。偶々《たまたま》林町に知り人の持家があって、ここに越して来たのである。秋だったから団子坂には菊人形があり、その人込の中を引越の車をひっぱって来たことを覚えている。

 私が父の彫刻の仕事を承《う》けついでやるということは、誰も口に出して言わないうちに決って了っていたことだ。跡とりは父の職を承けつぐことは決っていたことで、別に選択の何のと言うことはなく、自然にやるようになったのである。小学校の七つか八つ位の時、父から切出、丸刀《がんとう》、間透《あいすき》などを三本ばかり貰った。其の時に初めて父は私を彫刻の方へ導いて行くということをはっきり見せた訳だ。私は小刀を貰って彫刻家になったような気がして、何でも拵えてみたかった。丁度谷中に移って小学校を終る頃から、弟子が周りでやっているものだから、私は始終細工場に遊びに行って、その間に見たり聞いたりして、自然に道具やその他のことを覚えて行った。
 彫刻は、先ず小刀の柄をすげることが初りの一歩であった。詰り小刀の中身を貰う訳だが、檜《ひのき》の板を削って、すげる深さだけそこを削って嵌込《はめこ》み膠《にかわ》でつけて、小刀の柄がピッタリついて取れないようにすげ、それを上手《うま》く削って父なら父流の柄の形にこしらえ、椋《むく》の葉で手触りのないように仕上げるのである。それがなかなか出来ない。こんなのでは駄目だといって剥《は》がされて了う。小刀の中身の柄がささる溝が浅くなく深くなく僅かに余裕があって膠が入り込んでピッタリ喰付くのを良しとする。そうすると、すげた中身の廻りに空気が入らないから銹《さび》が来ない。それをうまく拵えるようにさせる。又柄を削るのも難かしい。削り方に流儀があって、だから小刀の柄を見ると誰の弟子ということが分る。父のは東雲系統である。柄の尻の所の丸め方、厚さと幅の関係、刃口の削り方など銘々の流儀で違う。又だから研ぎつけ方も違って来る。例えば石川光明さん系統の刃物は柄の恰好《かっこう》など見たところから違っている。従って、それを手に持っての扱い方が異る。それで筋一本削るだけでも流儀によって違って了うから、作風も自ら異って来るのは当然である。実際道具から違うということは、作風の違う大きな理由である。違った流儀の道具を見ると、変な所が丸めてあったり重かったりして何だか馬鹿のように見えるものである。父の流儀のが一番いきですっきりしているように見え、他の人のを見ると削ってやりたいような気がした。欄間を彫ったりする宮大工の小刀の形は全然違って、柄のすげ方も違い、使う時の持ち方も私等から見ると下等な持ち方をする。力が入るようにするのであろうが、そんな風な違うやり方をするということは、非常に忌んだ。「そんなげす[#「げす」に傍点]なことをするな。」と言われたものである。そういう事は凡《あら》ゆることにあった。鑿《のみ》などでも首の厭《いや》に長いものを持つことを厭がる。だから自ら決った道具になって了い、やり方も同じ道具の人は決って来るのであった。流儀というものが出来るのは当然なのだ。いろいろな流儀は、形の上だけのことでなく、生理的に出来て来る。木彫の中にも色々変っているものがあるが、なる程、ああいうようにやるからああいう風に出来るのだということが見ると夫々《それぞれ》分るのである。

 父からは、前にも述べたように直接弟子が教わるように教えては貰えなかった。私に対しては、手をとって教えるということは元よりない。又作ったものを見て貰うと言っても、いいとか悪いとか言うことはない。余り見苦しいと削って渡されるだけで、何処がどうということはない。改った教育は何もして貰えなかった。ただ為来《しきた》りに外れるようなことがあると怒られた。例えば仕事をしておいて、そのままにして出かけたりすると猛烈に怒られた。「職人というものは何処で仕事をしていたのだか分らないようにしていなければいけない。道具をうっちゃって置くようでは仕方がない。」と叱られた。だから仕事を奇麗にしまわないうちは、他のことは何も出来なかった。仕事の済んだ後の細工場は檜舞台《ひのきぶたい》のように奇麗にして、明日の仕事に備えていた。私は年中細工場にいて、何か始っているとすぐ割り込んで、父が弟子に教えているのを聞いた。
 小刀がどうやら研げるようになると、地紋の稽古《けいこ》をやらされた。地紋は仏師の方の伝統で仏師屋では実際にそれが必要なのだ。だからその稽古が伝統になっていて、私はその時は訳もわからず否応なしにやらせられて、実に厭であった。初めに父が端の方だけをやってくれて、後を習ってやるのだが、全く手に負えない。然しそれをよく彫る為には刃物も研がなければならぬしそれで刃物のことも解って来る。その稽古は檜の材に限って、今見ると勿体ないような五寸角で裏表やったものだ。一番初めに縦横の線だけのものをやる。一つの枠の中に四本の溝を同じ間隔で彫るのだが、その深さがなかなか揃わない。深さが揃っても今度は総体に深過ぎたり浅過ぎたりする。深過ぎると何かギリギリしてギスついた地紋になり、浅いと嵩《かさ》のない弱いものになって了い、丁度いい深さというものが幅に比例してあるのだが、それがなかなか呑込めない。その幅、深さの関係が非常にうまく合わないと地紋のよさが出て来ない。昔はそんなことは決して説明はしなかったから、「此は面白くない。」と言われるだけで、何故よくないのか分らない。同じことを新しくやり直す。その次が工地紋というのをやって、少しずつ複雑になるのだが、実は複雑な程易しくなるのであって、最初の簡単なのが一番厄介なのである。私は今でも時々その稽古をやってみるが、馬鹿にしていると、そんなことは出来なくなって、なかなかむずかしいものだ。地紋の稽古は本当にやらせると十種類ほど基本の形があって初め直線ばかりのものから七宝のような曲線のものになり、その次に新案と言って自分で考え出したものをやる。これをまあいいだろうというところ迄一年間位やらせるのであるが、然し恐らく誰もそれをよくやれた人はないだろうと思う。
 次に「ししあい」という彫の稽古になるが、これは彫金で謂《い》う「片切」と共通した彫り方で「ししあい」には一種の秘訣のようなものがあって、それを呑込ませる為にやるのだが、これもなかなか難しい。然しその時小刀以外に初めて丸刀《がんとう》を使い初めるので、非常に進んだという気がして嬉しい。それが済むと浮彫になる。浮彫は数知れず手本があって、大抵は狩野派の粉本からとって当てがわれる。花鳥、果実、獣などやると、次に水とか火焔《かえん》とかを稽古し、最後に人物をやる。人物は兆殿司《ちょうでんす》の羅漢の粉本をやるのであるが、他の画家の羅漢は余り彫刻にならないが兆殿司のはそのまま薄肉になるのは、恐らく余程立体的なのであろう。私もそれを盛んに稽古した。それで人間の顔の「にくあい」その他を覚えさせるのである。それが終ると板から離れて丸彫を始める。然し其処までやると丸彫になっても格別のことはなく、ひとりでにやれるようになる。大抵初めは人物より動物の方が面白いから、それを彫らせるのである。以前は布袋《ほてい》とか蝦蟇《がま》仙人などを手本にやったが、美術学校が始まるようになってからは、そんなものは生徒が面白がらないので写生風なものをやるようになっていた。その時分には、木彫の方でも油土で原型を拵えさせ、それを木で彫らせるという風になっていた。
 前に述べたように「こなし」を覚えることが骨子だから、荒彫を非常に重要視する。荒彫が本当にとれるようにならぬと、それから先に進めない。進んではいけないということになる。学校では成績をよくする為に、そんな厳重なことはしなかったが、家では、荒彫で本当に形がとれるようになるまでは仕上げはさせなかった。形がとれるようになれば次に「小作り」をやる。部分的な鼻とか口の切れ目とかを大体彫るわけだが、そういう場合でも小作りなら小作りで全体にいつも調子をとってやるの
前へ 次へ
全8ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
高村 光太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング