と、フォウビズム、印象派、後期印象派の三つに分れ、われわれの崇拝の的はゴオガンとゴッホであった。先輩の中で、われわれの兎も角承認したのは黒田清輝氏ただ一人である。
当時、山脇信徳が文展に出品した「上野駅の朝」と題する絵は、当時の新傾向作品の代表的のもので、私は新聞雑誌上でこれを極力賞讃した。
当時、文壇では若冠の谷崎潤一郎が「刺青」を書き、武者小路実篤、志賀直哉等によって「白樺」が創刊され、芸苑のあらゆる方面に鬱勃《うつぼつ》たる新興精神が瀰《ひろが》っていた。
「パンの会」はそうしたヌウボオ エスプリの現われであって、石井柏亭等同人の美術雑誌「方寸」の連中を中心とし北原白秋、木下杢太郎、長田秀雄、吉井勇、それから私など集ってはよく飲んだものである。
別に会の綱領などと言うものがあるわけではなく、集ると飲んで虹のような気焔《きえん》を挙げたのであるが、その中に自然と新しい空気を醸成し、上田敏氏など有力な同情者の一人であった。
パンの会の会場で最も頻繁に使用されたのは、当時、小伝馬町の裏にあった三州屋と言う西洋料理屋で、その他、永代橋の「都川」、鎧橋傍《よろいばしわき》の「鴻の
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