巣」、雷門の「よか楼」などにもよく集ったものである。
 三州屋の集りの時は芳町の芸妓が酒間を斡旋《あっせん》した。
 パンの会は、当時、素晴らしい反響を各方面に与え、一種の憧憬を以て各方面の人士が集ったもので、少い時で十五六人、多い時は四五十人にも達した。異様の風体の人間が猛烈な気焔をあげるので、ついには会場に刑事が見張りをするようになった。
 詩人では当時の名家が殆んど顔を出したし、俳優では左団次、猿之助、段四郎、それに「方寸」の連中、阿部次郎はじめ漱石門下、潤一郎、荷風の一党など、兎も角盛なものであった。
 松山省三が「カフエ プランタン」をはじめたのもその頃であり、尾張町角には、ビヤホール「ライオン」があって人気を独占していた。ライオンではカウンター台の上に土で作ったライオンの首が飾ってあって、何ガロンかビールの樽《たる》が空くと、その度毎にライオンが「ウオ ウオ」と凄じい呻《うな》り声を発する仕掛であった。
「カフエにて」と題する当時の短い詩に、

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泥でこさへたライオンが
お礼申すとほえてゐる
肉でこさへたたましひが
人こひしいと飲ん
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