げていたものであるが、期熟して、その秋、第一回展を京橋角にあった読売新聞の楼上に開催した。それが又ひどい会場で、天井板のようにガタピシする床には少からず閉口した。
私は油絵三点、彫刻を一点出品したが、岸田劉生は一室を占領し、万鉄五郎また多数を出陳して気勢をあげた。真田久吉の印象派風の作品など当時にあっては尖端《せんたん》をゆくものであった。この第一回展で特に記憶に残っているのは、先頃逝去した吉村冬彦氏(寺田寅彦博士)が夏目漱石氏と連れ立って来場され私の油絵や斎藤与里の作品を売約したことである。当時洋画の展覧会で絵が売れるなどと言うことは全く奇蹟的のことで、一同嬉しさのあまり歓呼の声をあげ、私は幾度びか胴上げされた。
翌年、第二回を開いたが、間もなく仲間割れでちりぢりに分裂し、私や岸田は新たに生活社を起した。この系統が彼の草土社となったのである。
その頃、特筆すべきは「現代の美術」と言う美術雑誌を主宰していた北村清太郎氏で、われわれの仲間ではペエル タンギイで通っていた。あらゆる意味から、この人ぐらい熱心に当時の美術界に尽力した人はないであろう。
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