くして、寧ろ自分が何か自分から距てられて[#「距てられて」に傍点]いること、そのことから空間が構成されてゆく。空間の中に生《いのち》があるのではなくして、生の中に空間があるのである。
ゾルゲルの云う「黙って、ジッと自分を見つめている眼なざし」は、かかる生きて動いている空間の浮彫りされたものとなって来るのである。
ここに、私達が自然と自分との間に画布を立てて、それを距てることを考えて見るに、生の立場からするならば、自然に対決する一つの視線をもった自分と、その次の瞬間に視線を投げる自分との間の隙虚《すきま》に、画布が寂かにすべり入り、その切断を充たさんとするとも考えられるのである。かく考える時、画布の二次元性は決して、物理的二次元性ではない。新たに構成されはじめる芸術的な生きた二次元性である。白い画布は、無限に流れてやまない時間の中に、自分が自分に問かける「疑問記号」に外ならない。
存在に対する問の設立として、私達は白い画布をかけるとも云えるのである。方向と範囲を定めた「距離」の生きたしるしとなるのである。
この一定の方向が自由になり、範囲が自由となり、この距離が動きはじめる時、こ
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