恋をする、好意をもつ、そちらに向って、顔面を向けて方向づけるの意味をもっていて、だんだん「考えること」に転化するのである。)ベッカーでは、その場合、その方向が「ひたすら」(ゲラーデアウス)であることが必要であると云う。
この「ひたすら」なる一義的方向が、一義的であり得なくなって、只距離はあるけれども、それは、アリアドネの糸に導かれる洞窟の中のさまよいのように、無限のさまよう面をもった時、それは二次元の空間が現われて来るのである。さまよいの不安、その広さの不安、無限の方向に距離が感ぜられる世界である。しかし、距離の感じが無限であるだけで、自分が動いてはいないのである。
その自分が動いて、自分が方向の舵をもって動きつつ、距離感の中を動きはじめる時、第三次元が生れると云うのである。
かかる考え方でもって空間を考える立場では、自分が自分を見ると云う本質的な視覚が出現する時、それは、空間を自分と自分との間の距離の出現として取扱うのである。「見る」と云うことがすでに、「生きた空間」をかたちづくって来るのである。
ベッカーのこんな考え方は、所謂空間的アプリオリティから「距り」が生れるのではな
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