如何に読み違えたかは、又、東洋精神史の記録として面白いし、又言葉が如何に生きているかの好材料となるに違いないと思われる。
た・は・よ
私はこの「気」のカードを取扱っているうち、一つの奇妙な、学問に特有な病気に、憑かれて来た。
今から読んでいただくものは、、その病気の一つの報告である。秋夜閑語のつもりで、笑っていただきたい。
日本語としての「き」「け」を文字にする時に、中国語の「気」「家」等の漢字にあてるにあたって、「き」でも「け」でもない、中間音のようなものがあることを学んだのである。まさしく言葉の「音」そのものが生きて、その姿態をかえながら成長しているらしいのである。
一体、私達の云っている「き」「け」乃至ウムラウトのついたような「きえ」と云ったような言葉は、何なのか。それ自体が生きて、何か一つの意味をもってはいはしないのか。
爾来、日本の言語論は、「言霊音義解」式の、一つ一つの音に、言霊があって、それぞれ一つ一つの意味をもっていると云うのである。言霊さきはっているから、文字や符牒がいらぬのだと云うのかも知れない。
誰だって、こんなに云われると、暇を見つけて、恐る
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