定着するのである。
更に本格的にこれを完成するのが、世界の観察者としての Subjekt「主観」を確立したカントなのである。主体が天の上にあるのではなくして、地球は回っており、天はばらばらとなり、その全体系を構成するのは、寧ろこの見ている自分自身なのであると云うのである。この自分が世界の根柢となってしまったのである。
アリストテレスのヒュポケイメノンとは、見事に反対のものとして、コペルニカス的読み違いがここに起って来るのである。
そして今や、更に世代の断層は「主観」から「主体」に、如何にして読み違えるかを、その主題として来たのである。
そのもともとの読み違いはヘーゲルのフェノメノロギーで、「真実は実体(Substanz)としてではなく、寧ろ主体(Subjekt)として把握され又表現されたのである」と考えられた時からはじまっている。即ちそれはピストルの弾のように個体として飛んでゆくものでなく、ロケット弾のように常に自分自身が分裂しながら発展するものとして、Subjekt を新しく読み違えた時からはじまったのである。今後もいろいろ議論されることであろうし、読み違えそのものが、又無限
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