のどもを抑える、ゆるがざる権威の基本的主体となったのであった。奴隷のエピクテートスも、帝王のマーカス・アウレリウスも、この subiectum にしばりつけられ、同じようにそれはすがりつくこと、即ち諦観することによって耐えていたのである。
九世紀のスコツス・エリウゲナでも、感覚的主観的なものとは反対の、法則的理性的なものとして、神の側のものとしているのである。
ブルックハルトが、最初の近代人的王と呼んだ十三世紀のフリードリッヒ二世の臣下であるトーマス・アクィナスでは、ようやく意味が読み違えられはじめて、subiectum はそれ自体に内在する固有の受け身の(機)(passio)原因となる。この理性の受動性である感覚にそれが関係しはじめると、それは、ただの受身ではなくなり、真直ぐに現代に通じはじめるのである。同時代のイギリスのドン・スコトゥスの弟子オッカムで、更にホッブスで感覚が精神の中に主観的であるとして、今の主観の訳語にあたるものとして出現するのである。そして、デカルトが遂に立派にこれを、「思考の中に、感覚の中に、心の中に、われわれの知覚の中に」見出し、現代のものとして読み違えを
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