の分裂でもって違って来ることだろう。もともと、「下に」「置かれる」、「下に」「投げる」ということが、[#ここから横組み]“sub”“ject”[#ここで横組み終わり]なのだから、無限に読み違えられて、投げ捨てられることが、subject の言葉のもつ運命とも云えないこともない。

   気
 以上のようなことを考えていて私は、フト日本の文化史の上で、自分が自分の意識を自覚したのを確かめる言葉があるだろうかと興味をもちはじめた。
 そして、「気をつかう」と云う言葉が、何時頃から用いられたか、目ぼしい文献で統計を取って見た。今のところ、室町時代の『秋月物語』に一つあるきりで、天正十五年の秀吉の手紙の外は見あたらない。
 それまでは「け」「けしき」「けしきばむ」「けはい」等で、天地の中に拡がっている精霊のようなもの、ぼんやりした喜怒哀楽であって、直接心理の反省の対象とは、なかなかなって来ないのである。
 武士で「気色」となると、人前で威容をいかめしく正して、やや怒気をふくんだ、気張ったものである。
 梶原景季が名馬磨墨を貰って、「気色してこそ引せたれ」等肩をいからせて、鼻息あらく出てゆくとこ
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