都会の子が、ついに荒涼たる地面の回顧から逃れることのできなかったことを、一瞥をもってとらえている。狂乱は彼の内部にある。彼が大都会で、ガス燈の光の中で、アスファルトの上で、カフェの中で描いたものの後には、文明の表皮を透して、巨大な北欧の風物が身をおこしている。」
一九二〇年より一九三〇年の歴史は人類の苦しい、しかし偉大な準備であったともいえるであろう。内省的個人の究まれる終結、何ものに対しても残留する懐疑の重さ、聖にまでももたらされたる憂愁、いわばそれは自我の破産である。カントの理性を導火とし、フィヒテの自我を爆薬とし、ルッソーの自然を坑道とし、フランス革命の七月にハイネたちが北海の浪を焔をもって充たしうるとまで叫んで爆発せしめたあの情熱が、かくもはやく燃焼しつくし、一かたまりの底あつい灰と化しようと誰が考ええたであろう。
しかし、事実は事実である。
限界を越えたる自我の自由が経済領域で犯せる越権、芸術において、哲学において、道徳において犯せる越権が、それに値する刑罰を課した。人は天才の名によって、非合理性の問題を意味づけんとし、恣意が独創の外貌をつけはじむる時、すでに情熱は一つの発熱をもたらし、不安と灰の感触の中に涵されたのである。そこに一九二〇年代の青白い憂愁と、高雅なる陰欝がある。
狂えるムンクはその一つの記録である。
それは集団の組織の中にみずからを要素とする道を知らない、偉大なる個人の記録である。破砕せる巨大なる個人の記録である。歴史の深さはそこにある。
一九三〇年にはデュアメルが叫び、一九五〇年にオウエルがゲオルギューが叫んでいるところのものが、またそうである。
インテリ的個人が集団の掌の感触を受け入れるのには一つの回心を要求する。脈々たる「時[#「時」に傍点]」の血汐の感触には、面をそむけるごとき戦慄が待っている。なぐりつけるごとき一抹の時の悪寒の底に、個人をその溶接の一関連体とする巨大なる溶鉱炉が、姿をおこす。
それが資本主義的な外貌をもつとはいえ、時代はすでに集団的性格をその交渉の単位としている。結社、組合、会社、工場、学校、軍隊、新聞、雑誌などのすべてがそれである[#「それである」は底本では「それあでる」]。
いわばそれは新しき未知なる秩序へのあらゆる試射であり、実験である。日々が、歴史それみずからリポートをおのれみずからに報告
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