るフィルムのふるえを頬に感じながらファインダーを覗く時、胸をうつ一種の吸引は、その新しき視線への崩るるごとき没入としも思われる。

 2

 私はここで、ベンノ・ライフェンベルグがエドワルド・ムンクの展覧会に際して述べた言葉を回想しよう。
「……もの醒めた、しかし休みのないテンポをもって渦巻く生活、おし黙って、しかもジッと動かない執拗な機械の力、そういうものがムンクの時代を震えあがらせる恐怖である。そうして彼はそれに逆らってこそ働いたが、そのためには働かなかった。しかし幾千も幾千もの人間は確かに、こともなく、何も知らずにこの鉄のような時代に住んでいる。新しき思想は火花の閃きのように人の中に消えていく。またわれわれは現にそれを当然のこととして、一九〇〇年時代の建物の中に住んで平気である。……絵を描く喜び、色や太陽についての楽しみ、そういうものは一九〇〇年頃を境として過ぎ去ってしまった。それと同じように、かつては――はるか昔のことであるが――その白壁が地の中から生えたと思われる、静かな家々も過ぎ去ってしまった。……今世紀の新しい壁は、ベトンを敷いた平面の上に、見知らぬ固い表情をもって立っている。何ものが豊饒な大地にふれることを妨げたのか、何ものが生命の源を塞いだのか、何びとも答えることはできない。何ものかが失われてしまった。それに気がついたものは人間の心だけである。心の不安に堪えずして目地を検《しら》べ、床を叩き、よろめきながら地下室に踏み込む。彼女は寒さに身を凍らし敷石の上にうずくまる。いつになったら意識が戻るのか、それまでは、そして一対の目が物に怯えて空虚を見つめる時のくるまでは、人間の心は故郷を失ったのである。
 ムンクはこれらの何ものをも知らずに、漫然と画面に命じて、嫉妬といい、叫びといい、心配の感じといい、また灰とよび、発熱と称している。しかしその底を尋ねれば、そこには常に一つの物が隠れている、それはものに怯えた人間性である。」
 これらのものはわれわれの三十年前の記録である。
 彼の描くものの核心は、存在が愚直なる偶然性に見えてくる戦慄、ほとんど動きのとれない運命に対するケイレン、何ものか失われたる世界への恐れに充ちた承認であり、これから始まろうとする空虚の承認でもある。
 ライフェンベルグはそれについて言う。「その中には偉大な準備があらわれている。そうして
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