レンズとフィルム
――それも一つの性格である――
中井正一

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)涵《ひた》った

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)半分|涵《ひた》った

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)「時[#「時」に傍点]」
−−

 1

 引金を引くような心持ちで指でふれる時、フィルムはすでに回転している。レコーダーは五フィート、十フィートと記録していく、重い感じの機械音を撮るものにとっては、ある大きな組織の中に巻き込まれている感じである。一コマ一コマの構図に眼は繰り入れられてはいるけれども、心はより多くの関心を、レンズのシボリと光線に配られている。そして、さらに生フィルムの一つの性格について、常に軽い実験的興味と親しみを感じている。現像液の中にすら、自分もが半分|涵《ひた》った思いである。
 そして、しかも、今の三フィートは、プランにしたがって、どこに位置づけられるべきかを感じている時、それは緊まった、キレた感情とある部署感をともなっている。今、もぎとっている現実の一片は、今から描かんとするシナリオの、未来の断片、構成の一要素である。実験されつつある組織の一エレメントであり、その見えざる網の一紐結として、その一コマは喜びを運んでいる。
 かつて画家は、その一コマの完成に一人格を投げつけた。今は、その一コマをレンズに託して、そこより出発し、人格が組織の構成体、一つのオルガンとなったように、一コマそれ自身が全組織の一要素となっている。キノキイのもつ喜悦は、このオルガナイズの情趣の上に在る。映画が絵画を引きはなすのはこの一点にある。一つは個性とカンヴァスであるに反して、他は個人がすでにその中に没入した性格と組織である。
 映画の製作の過程が集団的であるのみならず、その形式そのものがすでに集団的である。
 その過程とはその社会的集団的性格を意味する。そして、形式とは、その機械性とそれに加わる人間性との複合を意味する。換言すればいわばそれは、物理的集団的性格である。
 レンズとフィルムと現像液ならびにそれを涵す光、それらのものの前に人の見る意味はかぎりない急転回と、躍進と、測りしれざる未来をもっている。それこそ物理的集団的性格の刺すような、時のかなたへの遠き視線を意味する。
 われわれが、回転す
次へ
全6ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中井 正一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング