もつことが出来る。このごろの作品を読む一つの興味はそれが代作であるかどうかを見究めようとする試みにある。それは画壇に於ても通[#「通」に傍点]がもつ一つの趣味とさえなっている様である。もうこうなっては、企業的言葉を無茶苦茶に芸術なるやや神聖なる言葉に組合せて見ればよい。それは何かの意味をもってソドム的悦楽を逞しくすることが出来る。例えば芸術の売込的レディーメード性、芸術の売色的線香性、幇間性、落語的被注文性、芸術の速力化、合理化、大量生産化等々凡て諒解できる語彙である。
かくして、個人的天才的個別性は漸く集団的機能的組織性の中に解体され、再組織されて来る。そこではすでに「壇」ではなくて「団」である。祭りのニワではなくして、一つの経済的法人である。
こうなって後、フロイド主義を入れて見ても、ダグラス主義を入れて見ても、結局デパートの新流行選択の苦労にしかそれはすぎぬであろう。これが何処まで行くものか、それは経済制度と共に行方なきトロイカに乗っている。
この集団的機能的組織性が利潤的企業性を逃れて、清新な委員付託的なる構造をもつことの出来る日は先ず遠い、寧ろ近いとも云えるが、待つが故にのみそれは遠い。その促進については稿を他日にゆずりたい。寧ろこの場合たとい芸術的企業的組織の中でも研究さるべきことがないではないことを指摘しておきたい。言語遊戯的には先ず音韻使用効果の実験が準備さるべきである。例えば明治大正の日本文壇の音韻使用のパーセンテージの概略的統計を試みて見るにA、O、I、N、T、K、……Z、F、Pなどの順序に並ぶ様である。これは考え方によれば文学に於ける時代的音韻プリズムとも考えられるが、制作に於て実験的にこのプリズムの順序を変ずることを試みて見るのも一つの研究であろう。新しき音韻のコロナの科学的出現を意味する。或は九鬼氏の『日本詩の押韻』に提出された様な新しき試みも一つの文学的技術のドリルの一コースをなし得るであろう。句読の鋭角性への試験、新しい音韻函数への企図などいくらでもある。麻雀と馬券であくびしているほどのことはない。心理描写の領域だって、もう象徴主義の時代でない以上、フロイドを連想の射影性に還元して、その角度のアフリよりもたらされる種々なる連想的機能化などもいくらでも未だ余地が残っている様である。もっと映画のアングルとモンチャン(註 モンタージュ)
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