に学んでいいと思われる。社会的にだって、西鶴のねらった気質《かたぎ》ものに出て来る様な社会的集団的性格の確然たる剔出、その集団的性格と性格の組合いと圧力、その力学性の徹底的見透しなど、いくらでも未だ基本的練習のコースが残っている。モティフだって求めて奇を探らなくても、同じモティフを堂々と人間的解釈の新しいアングルでアフル手がいくらでもある。大いにやるべしである。
 しかし、やれって云ったって、どうしても、遂に出来ないらしいところに、云うに云えぬ秘密が潜んでいるのではあるまいか。「壇」なるものが手工業的ブロックであったものが、資本的自己企業に転ずることによって、漸く、個人的天才的[#「個人的天才的」に傍点]類型を脱して、集団的組織的[#「集団的組織的」に傍点]類型に展開するに至った。そのことはすでに一般の意味に於ける祭られたる聖域としての「壇」の意味を失して、戦うべき組織としての「団」に転ぜしことを意味する。
 そこでは雑誌の組織に見る如く設計的企画があり、従って注文[#「注文」に傍点]があり、注文に対しては調製[#「調製」に傍点]があり、その調製にあたっては、広告用としてのレッテル[#「レッテル」に傍点]が必要である。
 これらの現象が文学の制作に於て行われているのを、我々は寧ろ奇異としない。これらの組織にあてこんで、一般向のレディメードが現われ、芸術的企業界のいわゆるもち込みの現象、デパート的思想的棚ざらしとなって来る。たといそれが骨董的上品さをもつにしても、また目のさめるような斬新なる意図をもつにしてもやはり同様に商品としての価値にしかすぎなくなる。思想の銀座的散歩者の眼をひけばそれで足りる。
 こうなってしまった時、芸術は一体どうなったんだろう。滅びてしまったんだろうか。美しいせせらぎ、紅の花、小さなめだか[#「めだか」に傍点]の走っていた小川の上を覆うて、斜に鉄道線路の盛土が一直線に横切っている近代風景の様に、何もかもが斜に断ち截られてしまったかの様である。しかし、私はテニソンと共に執拗にも云いたい。自然はその盛土の上に更に紅の花を咲かせていると。
 新しい芸術も又この上に更に咲き出でなければならない。
 十年前ランゲによって芸術でないと断言され、五年前は同じ理由で他の二、三の人にあって半ば芸術と考えられ、現在は同じ理由をもって数百の人々より最も未来ある芸術
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