分自身を対象化すること、「見ること」を機《はず》みとして、自分自身を自分自身に矛盾せしめ、自分自身をスプリングボードとして時の中に跳ねかえり、突きすすむ。これが芸術気分である。「見る存在」の中に人間が身を置く時、時の中に欝勃としてひろがっている自分と民衆に一様に響きくる反響である。
 こんな意味で画の世界にとって画布は、演劇の世界にとって舞台の第四の壁は、文学の世界にとって紙は、一つの機《はず》みであり、跳躍の板である。画布は決して二次限[#「二次限」はママ]の平面ではなくて、発条のようなはたらきである。
 しかしこんな芸術気分には現今においては人々は実にふれにくいのである。なぜなら、商人が算盤を忘れて「見る世界」に入るどころか、画家が算盤を抱いて絵を描いているのである、いや描かずにいられないのである。
「見る存在」それ自体が商品化されている。そして大衆の見るはたらき[#「はたらき」に傍点]は利潤対象として数量化されている。大衆は利潤対象としての大衆として、訓練され、ようやくもの[#「もの」に傍点]になりつつある。デパートと映画と新聞と蓄音機のタイアップと、権力者の参加で、とんでもない
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