はありえないはずなのに、それへの傾きをつよく強いる性質を舞台はもっている。またそれが本質でもあるようである。職業意識も、身分もない人間、真に、もう一度全部を考えなおして、正しく生きなおさなくてはならないはずの人間に、正しく人間を建設する人間に、一瞬でも人間を引きあげることは注意すべきことである。そこでは人間は単なる自然の人間でもなく、一日一日築きあげている技術の人間でもなく、正しかるべき人間が、未来から、ソッと汚濁に満ちたこの現実を鍵穴から覗いているような、「見る存在」になっているのである。身分とか職業とか疎外された人間の桎梏に対立する人間となること、ここに「見ること」がその真の姿においてあらわれているともいえるのである。
芸術の快感が、ほかの快感より異なっているのは、この正しい客観的真実、文化の背後のものの羽音を身近く感じている刺戟にほかならない。この気分は芝居だけでなく、すべての芸術の分野の「見ること」がもっている意味である。
「見ること」の機《はず》みをもって、自分自身がいつのまにかほかのものとなっていることを確かめる。「見ること」の機《はず》みをもって、自分自身を脱けだし、自
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