強くなっているのである。しかし、一般に非連続なものの連続への原理は同一である。それが弁証法的立場においては、さらに移行における媒介として、すなわち主体性の立場において、一段の力学性を帯びてくるのである。
芸術的見かたとはしからばどんな特徴をもっているのだろうか。
よく芝居気分といっている気分がある。芝居を見にいこうと思って着物を着替えたりするころから、何か浮き浮きしている。母親が娘に冷やかされたりするほどいつもと異なった人間になりかわっている。母親は母親の威厳やとりすましを失って、一箇の人間になっている。博士はうっかり博士を忘れているし、軍人は劔を忘れ、商人は算盤を忘れ、僧侶は宗教を忘れて、おかしければ笑い、悲しければ泣いている。みんな子どもになって遊んでいる。
劇場においては、臨検の警察官もその職務を忘れて泣くはど、人間全体が、一箇の原始人に帰ってなまの裸の気分で舞台を見つめている。
「見る存在」とでもいいたいような存在に、人間がなりすましている。いじましい[#「いじましい」に傍点]職業を忘れかけていもすれば、貧富も忘れかけている。身分も見ている間は消えかけている。そんな人間
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