る。流動している現実を連続するのは一瞬一瞬の見ることの、すなわちこの切断の連続である。

 さきの場合、うつす[#「うつす」に傍点]ことは等値的射影であるということを意味する。したがって見ることは能動的に世界を映す鏡となる。それに対して、後の場合、うつる[#「うつる」に傍点]ことは、否定を媒介としてみずからを対象とするということを意味するので、したがって見ることは能動的に世界に面するところの機《はず》みとなってくるのである。前者では静的であり、後者では動的となるのである。また前者では、非連続が連続的に取り扱われているに対して、後者では、連続が非連続的に取り扱われているのである。
 この立場の相異は、すでに立場として深い歴史的根拠をもっていることで、物理学でアリストテレス的な見かたと、ガリレオ的な見かたをクルト・レヴィンが正しく分けているように、大きく二つに分けられるのである。アリストテレス的なものの見かたは、見ることを、何か基体的な動かないものから、展望を開くような見かたであるに反して、ガリレオ的見かたは一つの見かたそのものを、事実の否定を媒介として、さらに対象化して、見ることそのもの
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