しいこととなってくるのである。
「みる」という言葉の意味の中には、さらにこの肉体的な射影行動の意味ばかりでなく、やってみるといったように、験すとか、何か不思議に面しているような、好奇的なこころもちも含まれている。この気分の中には、移るもの自体は、すでに行為的な流動的な時間的な、未来にのしかかっていく移動もふくまれていて、うつすとかうつるとかに関連して、みるという気持が、行為的な速度を経験している。「見えている世界が神秘だ」というゴーチェーの言葉は、そんな意味で、現《うつつ》というものがよくあらわれているリアルな表現である。一瞬一瞬、自分がいつのまにかほかの自分になっている。この音もない移動、この移動を単なる運動とするのではなくして、「同一の自分」と「移る自分」とをつなぐ神秘な重々無尽の鏡の間として、見ることが意味をもってくるのである。
 しかし神秘なものとするには、それはあまりにも日常の行動である。毎日やってみているのである。試みているのである。リアルな表現で荒っぽく取り扱えば、そのことは「否定を媒介としてみずからを対象化する」ことなのである。まじまじと驚きをもって現実に関することであ
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