アとに氣付いて居た.これを Bohr は對應原理と名付けた.
例へば量子數の大きい極限に於ては,Bohr 理論と古典論とは其結果に於て一致する.勿論これは結果だけであつて其物理的解釋は全く異つて居る.例へば原子が光を出す場合に於ても,量子論では一つの素過程に於て單一の振動數を有する光量子を放出する.そして異つた素過程の集合した結果多くの振動數をもつ光を出すのである.所が古典論では帶電粒子が軌道運動をすれば,同時に多くの振動數をもつた光を出すことになる.此兩者の結果は一般には一致しないが,量子數の大きい極限に於ては同じことになる.これからして Bohr は量子論が古典論を一般化したものであるといふ考へを夙くから抱いて居つた.
又原子に於て Bohr の二假定に從つて輻射される光の強度と,それに關聯した定常状態に於ける電子の運動の Fourier 展開係數とが,特別の場合には古典論に從ふ關係をもつことを指摘した.これは其後 Kramers によつて Stark 效果の場合に適用して詳細に研究せられた.
古典量子論を原子,分子の問題に直接適用出來ないことは,其後次第に明かになつて來た.こんな場合にも Bohr は古典論との對應を追究することによつて,問題を解く端緒を得て行つたのであつて,云はば對應原理は闇夜の燈火であつた.これ等の點を最もよく論述したのは丁抹の學士院の報文として1918年 (15)(16)[#「(15)(16)」は上付き小文字] 並に1922年 (26)[#「(26)」は上付き小文字] に發表せられた3論文である.之は量子力學の發見以前は,量子論の基礎假定に關する1923〜1924年の論文 (34)(35)[#「(34)(35)」は上付き小文字] と共に,量子論の教書のやうに考へられたものである.
Bohr は對應原理を指針として,元素の週期律を原子構造の立場から解明しようと試みた.それには各元素の裸の原子核が,電子を1箇宛捕捉して行く時に生ずるスペクトルを理論的に攻究し,それとX線スペクトル並に原子スペクトルに關する實驗結果とを照し合せ,又他の諸性質をも參考として各元素の原子構造を明かにした.そしてその結果を初めて‘Fysisk Tidsskrift’(1921)(22)[#「(22)」は上付き小文字]に發表した.
これによつて各原子の構造が解ると共に,逆に此結果から未發見の元素の性質が豫告し得るやうになつた.Hevesy,Coster の72番の元素 Hf の發見は,これに基いてジルコン鑛石の中を探索した結果であつて,Bohr 理論の大きな應用の一つである.Bohr は1922年12月のノーベル授賞式の講演に於て,この發見を最初に發表したのであつた.これより先佛國の Urbain は此72番の元素を稀土類の中に發見したと云ひ,これを Celtium と名付けて居たのであるが,Bohr の理論によれば,之は稀土類に屬さぬものであることが明かであつて,此發見に就いては Urbain と Hevesy,Coster との間に論爭を生じたが,今日では Celtium なる名は消滅したやうである.
Bohr の原子構造論は其後 Main−Smith 並に Stoner によつて多少改められたが,ともかく今日の量子力學と Pauli の原理とからして得られる結果と少しも異る所はない.今日から見ると對應原理を唯一の信條として,よくも此處迄漕ぎ付け得られたものと思はれる.これも Bohr の勘の好さによるのである.
此勘の好いといふことが何であるかは,言葉その物の本來の意味の示すやうに,これを解説することは出來ないが,人が一つの問題に沒入すると,これに同化融合し,人と自然とが一體になり,自然の根柢を支配する深い法則に觸れるやうになるのではないかといふやうな氣がする.これは Bohr 教授に接したものの受ける印象ではなからうか.
Bohr の原子構造の研究が完成した頃から,對應原理を指針とする古典量子論の無力さが次第に表面に現はれて來た.殊に光の波動説と粒子説(光量子説)との矛盾が,人に甚だしい不滿の念を抱かせた.此點に橋をかけるために Bohr−Kramers−Slater の理論が出た (37)(38)[#「(37)(38)」は上付き小文字].これはエネルギー,運動量の不滅法則が素過程には行はれないで,ただ統計的にのみ成り立つものであるといふ考へを用ひ,波動と粒子とを結ぶ試みであつた.此説は Geiger−Bothe,Compton−Simons の實驗によつて誤であることが明かにせられ,Bohr 自身も既に其前に熱力學的考察からこれは誤つて居ることを覺つて居た.今日から見ればこれは明白であるが當時としてはそんなに簡單ではなく,殊に Bohr は個々の電子,原子などの行動が,こんなに迄立ち入つて檢討せられるものとは考へて居なかつたやうである.
此 Bohr の考へは誤ではあつたが,今日から見て興味あることは,今の量子論ではこれと同樣な考へ方が,時間空間の問題に採用せられて居るといふことである.即ち個々の光量子や電子の時間空間に於ける傳播,運動は,これを豫知することは出來ない.只統計的にのみこれを規定し得るものである.即ち Bohr−Kramers−Slater の考へ方は,これをエネルギー,運動量に適用せずして,それと正規共軛の關係にある時間,空間に適用すればよかつたのであつた.こんなことは後から考へると眞に紙一重の差である.
對應原理の無力を示す事象は,その他色々出て來たが,その中でも Ramsauer 效果及び多重スペクトルなどは著しいものであつた.前者は結局量子力學の發見によつて始めて解かれた問題であるが,後者は電子のスピンによつてその前に闡明せられたのである.此スピンの發見は Goudsmit,Uhlenbeck の二人によつて指摘せられたものである.Bohr は始め雜誌 Naturwiss. に出た兩人の寄書を見落して居たのであるが英國に行つた途中和蘭に立ち寄つて此話を聞き,速座に其考への正しいことを洞察し,歸國後早速 Goudsmit を Copenhagen に招き,連日の討議によつて今日のスピン模型の理論が確立せられたのであつた.此論議に於て2なる値をもつ係數を Thomas が計算したのであつた.
此話は Bohr が如何に學術の進歩を促すに熱心であるかを示す一例である.これによつて八方塞がりの量子論も稍愁眉を開いたのであるが,然し眞の展開はそれから後の事であつた*[#「*」は上付き小文字].
*[#「*」は上付き小文字]今日の量子論の状態がこれに類似して居る.湯川理論によつて重粒子間の作用,その他宇宙線の問題は解かれたが,更に量子論その物の本質的改革が要望せられて居る.
§6. 量子力學の發見.
それは Heisenberg の量子力學の發見によつて始まつた.此着想は1925年の春 Heisenberg が病を避けるため Heligoland の島に居た時得たものである.そして島から下りて來る途中 Hamburg に居た Pauli に此話をした所が,Pauli は直ぐ贊意を表したので之を書いて雜誌 〔Zeitschrift fu:r Physik〕 に送つた.之が所謂 Pauli の“裁許”(sanction)の一例である.
Heisenberg は是以前に Copenhagen に來たことがあるから對應原理の眞髓に徹して居た.殊に Kramers と共に光の分散に關する量子論の研究を行つて,その精神に曉通して居たのである.此分散の研究は量子力學發見の先驅であつた.要するに Heisenberg の理論は Bohr の對應原理を數學的の形式によつて體現したものであつて,之によつて對應原理は其使命を果したものと云つて好いであらう.そして古典論と量子論との對應は一目瞭然,しかも定量的に規定せられるやうになつた.
これより先に de Broglie の物質波動説は提唱せられて居たのであるが,〔Schro:dinger〕 がこれに數學的の形を與へ,所謂波動力學を樹ててから一般の注意を惹くやうになつたのである.〔Schro:dinger〕 の理論は de Broglie 波を表現するものであると同時に,Heisenberg の意味での量子力學に於ける,最も有力な數學的武器である事が後から解つて來て,今迄堰き止められて居た水が,一時に奔流するやうな勢で凡ての問題が解かれて行つた.
これで知れるやうに量子力學の發見には,直接に Bohr の手で行はれた部分はない.然し直接間接にこれを生み出す機運を誘致し,又其下にある Copenhagen 學徒の中から發見者並に推進者を出したのであるから,其生みの親と云つても好いであらう.
§7. 量子論の哲學的考察――相補性*[#「*」は上付き小文字].
量子力學の威力が至る所に發揮せられている頃,Heisenberg は其物理的内容の闡明について深い研究を行ひ,不確定性原理**[#「**」は上付き小文字]を誘導した.これは Hamilton の所謂正規共軛の二つの量を同時に測定する場合,その各の平均の測定誤差の積は,Planck の常數 h よりは小さくし得ないといふ原理である.これは測定器の不正確に基因するものではなく,量子論的の量に固有の原則的制限であつて,これ以上の正確度を云爲するのは意味の無いことなのである.
Bohr は之と類似の考へを前から抱いて居つて***[#「***」は上付き小文字],やはり其頃此考察を行つて居たのであるが,Heisenberg の此原理の發表後更に其核心を把握する研究に沒頭した.その結果として Heisenberg の思考實驗中の行論を訂正し,進んで此不確定性原理の因つて來る所を明かにした.即ち對象に對し正規共軛の二つの量の一方を測定する實驗を行ふと,量子論的實在にあつては其實驗の爲に無視し得ない影響を他方の量に與へることを避け得ない.その上にその影響の大さは,光及び電子が量子論に從ふ實在である爲に,原則的に正確に求め得ないもので,從つて古典論の場合のやうに補正を行ふといふことが出來ない.云ひ換へれば觀測に於て,觀測體と被觀測體とが古典論の場合のやうに截然たる區別をつけられないといふ事態にあることに基因するのである.これは Bohr のいふやうに,心理學に於て主觀と客觀とが判然と區別し得ないことに類似して居るのである.
不確定性原理に從へば,正規共軛の二つの量の一方を非常に正確に求める實驗を行ふと,他方の量は全く解らなくなつて了ふ.かやうに量子論に於ては半面的の事態が至る所に存在して居る.Bohr はこれを相補性(Complementarity)と名付け,量子論のことを相補性理論と唱へて居る.これは相對性理論に對應する名前である.以上のことで解るやうに,量子論の領域に於ては,觀測の仕方によつて現象が規定せられる.觀測に無關係に實在する現象はない.これはよく言はれる“物は觀方による”といふ言葉で表はして好いであらう.
de Broglie の物質波動説が實驗的基礎を得るやうになつてからは,光に於ける波動説と粒子説との論爭が,物質にも飛び火がした.光に於て此兩者の調整に失敗した Bohr が此事態に最も關心を深めたのも當然である.そして相補性の考察を進めてこれを解決した.即ちこれ等の波動説とか粒子説とかの基礎となる實驗事實を檢べて見ると,波動説の場合には時間空間に於ける傳播,運動が問題となり,粒子説の現はれるのはエネルギー,運動量が當面の問題となつた時である.そして一方が問題となつて居る時は他方は自然に姿を消して了ふ.此兩者は前述の通り互に正規共軛の量であるから互に相補の關係にある.從つて時間空間の問題に於て波動性が現はれエネルギー,運動量の問題に於て粒子性が現はれるといふことは,つまり別々の
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