NIELS BOHR
仁科芳雄
−−
【テキスト中に現れる記号について】
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#同相、1−2−78]
〔〕:アクセント分解された欧文をかこむ
(例)〔Mo/ller〕
アクセント分解についての詳細は下記URLを参照してください
http://aozora.gr.jp/accent_separation.html
*:注釈記号
(例)二つの基礎假定*に
−−
§1.Bohr の地位.
今日の純物理學界に於て,最も重きをなす世界人は Niels Bohr である.Planck 老い Einstein 衰へた今日,其右に出づるものは見當たらない.勿論各國共その國内に於ては色々の意味に於て權威者はある.又各專門に於てそれぞれの第一人者は存在する.然しこれ等の人々を一堂に集めた時,名實共に備はつた碩學を選んだとすれば,Bohr はその首位に推される人である.
それは今日迄の Bohr の業績が,自然科學の最も深い基礎を左右する大飛躍であつたからである.從つて多くの科學は何等かの形でそのお蔭を蒙つて居る.否科學のみならず吾人の思想,觀念にも重大な影響を及ぼさうとして居るのである.その結果でもあり又本來の性格でもあるが,Bohr の關心は科學,哲學等の廣汎な範圍に亙つて居る.興味を惹かぬ領域の事は輕蔑するのが人の常である.その反作用としてその領域の人からは相談を持ちかけられない人となつてしまふ.Bohr は物理學以外に化學,生物學等の廣い範圍に同情と理解とがある.而かもそれが下手の横好きといふのではなく,問題の核心を把握する素質を備へて居るのであるから,誰しも敬畏する道理である.
又 Bohr の學界に對する態度は,國の東西を問はず相提携して學術の進歩を念願として居るのである.それが爲にはあらゆる手段を講じて同僚後輩のために學術上,人事上の助力を惜まない.今日の新しい物理學を推進して居る多くの有爲な人々は,直接か間接か何かの機會に於て Bohr から教へられてゐる事が多い.殊に Copenhagen の Bohr の研究所に雲集する人々は,Heisenberg のいふ Kopenhagener Geist で以て仕込まれるのであつて,これが今日の物理學進展の一大原動力となつて居ることは否めない事實である.從つて Bohr が物理人欽仰の的となるのも當然であらう.
又 Bohr の風格,人物,年齡などが,今日の Bohr の地位を築き上げるに與つて居ることも見逃がせないことである.
§2.生立ち.
Niels Hendrik David Bohr は1885年10月7日丁抹の首都 Copenhagen に生まれた.嚴父 Christian Bohr は同地の大學の生理學教授であつたが,特に物理學に興味を持ち,云はば純實驗物理學的の仕事をした人であるといふ.これが Bohr の將來に多大の影響を及ぼしたのはいふ迄もないことで,Bohr の天賦は此環境によつて延ばされた事であらう.
殊に當時の大學の物理學教授 C. Christiansen と嚴父とは親友であつた.Bohr が1903年即ち數へ年19歳の時大學に入つて物理學を專攻することになつてから,Christiansen は Bohr を講義實驗の助手にしようとした.がそれは恐らく Bohr には所を得たものとは云へなかつたのであらう,1年位で止めになつて了つた.
然し茲に Bohr の力量を示す機會が來た.それは Christiansen が自分の講義に關聯して,1905年に丁抹の學士院をして物理學の懸賞論文を募集させた事である.其の題目は“Rayleigh の液體 jet の定常振動の理論を用ひて表面張力を測定”せよといふのであつた.Bohr は此の問題に着手し,自宅(官舍)にあつた嚴父の實驗室で實驗を行つた.此實驗は一度始めると終る迄は止められなかつたので,夜おそく迄も續けなくてはならなかつたといふことである.
論文は1906年10月に提出され,翌1907年には學士院から金牌が授けられた.此論文は London の Royal Society の Phil. Transaction (1909)(1)*[#「(1)*」は上付き小文字]に發表せられたが,これが Bohr の唯一の實驗物理學に關する論文である.此頃は勿論その後も Bohr は實驗物理學者たることを志して居たやうであつたが,理論物理學における大きな業績は Bohr をそちらに掻つて行つて了つた.
上述の論文を見て氣の付くことは,Bohr が其構想に於ても又技術に於ても,卓越した實驗物理學者であるといふことである.これは筆者も Bohr 教授の研究所に滯在中切實に感じたことであつて,同研究所から發表せられる實驗物理學の論文には,Bohr の着想又は理論的要素が多分に織り込まれて居るものなのである.
更に此論文に表はれて居ることは,Bohr が學生の若さであり乍ら,既に發達した理論家であつたといふことである.即ち Rayleigh の理論は極めて小さい振幅の場合にだけ當てはまるものであるが,實際實驗の場合には有限の振幅のものを取扱ふのであるから,其影響を補正しなくてはならぬ.Bohr は此補正を導入して Rayleigh の理論を擴張して居る.
かくて1909年には magister(學士)となり,1911年には“金屬の電子論”なる論文を提出して理學博士の學位を得た.此論文は丁抹語で書かれ他に發表されて居ないが,其内容は古典的電子論即ち Lorentz の電子論の見地よりして,金屬の諸性質を最も一般的に導き出さうと試みたものであつた.此論文に於ても其異常な天分がよく表はれて居り,殊に統計力學に堪能なことが解る.そして其結論としては,古典論的電子論の見地よりしては,物質の磁性は説明し得られないといふ事であつた.
此結論は今日の量子論の立場から囘顧すると,極めて興味あることで,金屬の電氣傳導にせよ磁性にせよ,其頃既に古典論の行くべき所迄は行き盡して居たといふことが解る.そしてそれ以上は一つの新しい飛躍が必要であつたのである.Bohr は此事態を此論文により最も切實に體驗した譯であつて,これが古典論からみれば不合理と考へられる水素原子模型の提唱を敢行せしめた理由でもあらうか.
金屬の電子論は,少くとも原理的には今日の量子論によつて解決せられたのであるが,此量子論たるや吾人の腦裡に終始一貫した因果的の描像を許さないものである.從つて Bohr の論文は吾人の描像的能力の極限に到達して居たものと考ふべきである.
*[#「*」は上付き小文字]本文中 (1),(2) とあるは卷末 Bohr 論文目録の番號を示す.以下同じ.
§3.古典的量子論.
學位を受けてから間もなく Bohr は,英國に1箇年間の留學をすることになつた.そして最初は Cambridge の J. J. Thomson の許に,次いで Manchester の Rutherford の所に行つたのである.
Cambridge では,帶電粒子が物質の通過に際して受ける速度の減衰について,理論的研究を行つた (4)[#「(4)」は上付き小文字].Bohr は2年後に再び此問題を取り上げて研究して居る (14)[#「(14)」は上付き小文字].これ等の結果はα粒子やβ粒子の物質通過に際するエネルギー損失の理論として今日に至る迄尊重せられて居る.そして20年後の今日になつて,量子力學の立場から Bethe や Bloch によつて研究せられたが,其結果は少くとも非相對性理論の範圍に於ては,大體に於て Bohr の結果と合致することが知れた.これは Bohr の勘の好さを示す一例であつて,古典論を以て量子力學の結果を豫知し得たものと云つて好いであらう.此事は次に述べる原子構造の理論に就いても同樣に云へることである.
Cambridge を去つて Bohr は Manchester の Rutherford の所に遊學した.ここで Rutherford を知つたことは,Bohr の一生を支配する重大な意義をもつ事であつた.Rutherford は Bohr より14年の年長者であつたが,兩者の親交は Bohr に大きな支援,激勵,慰安を齎したのである.一昨年 Rutherford の薨去に際して Bohr の受けた心的打撃が如何に大であつたかは,筆者に寄せられた手紙によつても明かである.その一節に
“To me Rutherford was not only the great master but a fatherly friend such as I shall hardly find in life any more.”
といふのがある.よく兩者の交りが表はれて居ると思ふ.
Rutherford が Cavendish Laboratory の長として Cambridge に居た頃は,Bohr は大抵1年に一度か2年に二度海を渡つて Rutherford を訪問し,Cavendish Laboratory で講演したりなどして居た.現に筆者が初めて Bohr に會つたのは,1922年3月 Cavendish Laboratory に於てであつた.
話が岐路に走つたが,Bohr が Manchester に行つた時は,恰度 Rutherford がα粒子の散亂に關する實驗結果からして,實驗的に長岡博士の模型即ち核原子の模型に到達し,これを提唱した直後であつた.此模型は周知の通り今日の原子構造論の礎石を置いたもので,惹いては現下の元素の人工變換に導いて行つたのである.今日から見ればこれは大して破天荒の着想とも考へられないかも知れないが,それは後からの話で,其頃物理學界を風靡して居た J. J. Thomson の模型,即ち陽電氣の雲塊の中に電子が浮かんで居るものに比べると,全く新しい洞察であつた.
此核原子の模型によつて放射性元素の問題にも色々の曙光を認めた.此點に就ても先鞭を着けたのは Bohr であつたが,實をいふと Bohr の立場は更に高い所にあつた.即ち此模型の眞實性を確信し,これにより原子,分子の構造を明かにし,一般的物性の依て來る處を説明しようとするのであつて,放射性元素について其當時問題となつた事は其一端に過ぎなかつた.從つて滯英中これ等のことに就いては何の發表をもしないで歸國した.
丁抹に歸つた冬即ち1912−1913年の冬の學期には,講師として講義をし乍ら此問題の研究に沒頭した.そして原子の出すスペクトルの究明に着手して茲に不朽の業績を樹てたのである.それは周知の通り前記の核原子模型に Planck の作用量子の假定を適用する事により,古典論では説明の付かなかつた水素の原子スペクトルを理論的に解いたのである.これは雜誌 Phil. Mag. 1913年7〜11月號 (5)(6)(7)[#「(5)(6)(7)」は上付き小文字] に3囘に亙つて發表せられて居る.其骨子はよく知られて居る通り古典論では律し得ない二つの基礎假定*[#「*」は上付き小文字]にある.此假定は今日の量子論に於ても結果として其儘殘るものである.
此 Bohr の原子論に就いて述ぶべき事が二つある.第一は其當時の理論は所謂古典的量子論であつて,原子の定常状態のエネルギーを算出するには古典論を用ひるが,定常状態の規定並に定常状態の間の遷移には,古典論と相容れない上述の二假定を用ひるのであるから,理論としては一貫性を缺いだ不滿足のものである.そして此二假定も今日の量子論からは自然に導き出されるものであるから,Bohr 理論は今日の量子論の生みの親であつたといふ歴史的價値以外には,理論としては最
次へ
全7ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
仁科 芳雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング