早今日何の價値もないものであるといふ議論を聞くが,これは妥當な見解とは云へない.
勿論定量的の問題を解くに當つては,Bohr 理論は凡て今日の量子力學によつて置き代へらるべきであるといふことに異論はない.然し原子内の電子の行動について,吾人のもつて居る概念を用ひてこれを表現しようとすると,其一つの行き方として Bohr 理論に歸着することは避け得ないのである.勿論巨視的事象を通して形成せられた吾人の概念を,描像能力の極限を超えて居る原子,分子等の微視的對象に適用すると,行き詰りを生ずることがあつてもそれは止むを得ないことである.それが Bohr 理論の遭遇した運命であり,又前述の金屬の電子論に表はれた事態であつて,定量的の問題は描像能力の限界内にある古典論では解き得ず,描像を超脱した量子力學を必要としたのである.然し苟も描像を用ひるならば,其範圍内では Lorentz の古典論は正しい.それと同樣に原子なる對象を描像を用ひ得る古典論によつて表はすならば,Bohr 理論が一つの表現法なのである.只これでは描像は可能であるが,量的には不正確である.これを補ふために前記の假定を別に導入して量子力學と同一結果に達することを得たのである.即ち量子力學を知らずしてこれと一致する結果を得る同等の方法を見出したのであるから,前述の通り Bohr の勘の好さが窺はれるであらう.勿論此假定は既に描像の範圍を脱して居り,又これでも定量的には不充分であつて,結局理論を定量的に進めて行く量子力學が生れたのであるが,太陽系に似た模型を用ふる Bohr の概念は正しい.そして定常状態とか定常状態間の遷移などの考へは,その儘永く殘るものである.
Bohr の理論は原子,分子の行動を表現する一方法であると云つたが,他の描像は何であるかと云へば,それは de Broglie の波動論である.即ち原子を一つの定常波として取扱ふのである.此波動も古典論に從ふ波動でないことは,Bohr 理論に於ける電子が古典論に從ふ粒子でないことと對應して居つて,de Broglie 理論に於ても定量的に問題を取扱ふには,やはり波動場の量子論を必要とするのである.此點では Bohr 理論と同樣描像の限界内にあるものであるから,その範圍を超えた問題についてはやはり無力である.
第二に Bohr 理論に就いて述ぶべきことは,水素原子の定常状態のエネルギー値が,古典量子論によるものと今日の量子力學によるものとが定量的に一致することである.これは Coulomb 法則の場合に起る偶然の一致であつて,帶電粒子の衝突の問題に於て,古典論と量子力學とが共に Rutherford 式に達すると同樣である.Coulomb 以外の法則では恐らく必ずしも一致しないであらう.
此偶然の一致は量子論の進歩の爲に,一面幸であり又一面不幸であつたと云へるかも知れない.幸といふのは,此一致の爲に,Bohr は後に述べる對應原理(correspondence principle)を樹立し,これに從つて原子構造論,スペクトル論などを進めて行つて,量子力學の誕生前既にその結果を豫知して居た.若し此一致がなかつたならば,こんな進歩は恐らく著しく遲れたであらう.
然し一面から云ふと,此一致があつた爲に古典論の力を過信した傾きがなかつたとも云へない.殊に Sommerfeld の微細構造の理論等が,之も偶然の一致から實驗に合ふ結果を示したので,其當時の人は古典論は原子,分子にも定量的に適用し得るといふ誤信を抱くものもあつた.之が爲に今日の量子力學の發見が或は多少遲れたかも知れない.然し又一旦之が發見せられると其進展の驚くべく迅速であつたのは,古典論の適用によつて嘗めさせられた經驗の苦さ,及び前述の通り古典量子論によつて形成せられた正しい背景が與つて力あつたと思へば,これも結局は幸であつたといふべきであらう.殊に何の手掛りもなくては量子力學も發見が困難であつたらうから,つまり今日の量子論は行くべき道を進んだと考ふべきである.
*[#「*」は上付き小文字](A)原子内の電子の運動状態は,或る條件で規定せられる所謂定常状態のみが許される.そして此状態は不思議な安定度を有つて居つて,電子が其運動状態を變へる場合には,必ず一つの定常状態から他のものに移り,如何なる作用があつても其中間の状態にはあり得ない.
(B)一つの定常状態から他の定常状態に移る場合には,次の式で與へられる振動數νをもつ電磁波を輻射又は吸收する
[#天から15字下げ]hν=E'−E''
但し E',E'' はそれぞれ初めと終りとの定常状態に於ける原子のエネルギーで,h は Planck の常數である.
§4. Bohr の理論物理學研究所.
1913年の夏 Bohr は Christiansen の後をついだ Knudsen の後任として大學物理學科の助教授(Docent)となつた.此講座では醫學部の學生に物理學初歩を教へるのであつたが,之はあまり有難い仕事ではなかつた.然し夫は1年丈で濟んだ.といふのは1914年には Manchester の Rutherford の所へ,物理の講師として呼ばれたからである.當時歐州大戰が勃發したが同年10月には英國に渡り,2年間 Manchester に滯在した.其間1915年には前記スペクトルと原子構造の研究の繼續結果を發表した (11)(13)[#「(11)(13)」は上付き小文字].
1916年には Copenhagen 大學に Bohr の爲に理論物理の講座が設けられ其教授に任ぜられた.そして此講座にはやはり前記の醫學部學生への講義が付き纏つて居たのであるが,1916年夏歸國するや代講者を置くことを許され,又1918年には別に此講義の講師が置かれることになつて,全く惡縁を切ることになつた.
Bohr は就任後直ちに,此講座に附屬する理論物理學研究所の建設を大學當局に提議した.其内容は圖書室,講義室並に理論物理學研究に必要な設備,又理論物理學研究結果の檢討並に理論發展の手引きをすべき,實驗研究を行ふための器械裝置及び工作場を設けることであつた.此建議は大學當局,政府,議會を簡單に通過した.それは此敷地が有志者の寄附(8萬クローネ即ち現在の8萬圓)によつて,市の東北 Blegdamsvej に購入することが決つたからである.
此建築は1918−1919年の冬に始められ,1921年3月3日大學理論物理學研究所(Universitetets Institute for teoretisk Fysik)として開所せられた.此建物は約15間×7間位で,半地下室は物理實驗室及び工作場に用ひられ,その上の階が講義室,圖書室並に理論の方の人の居室,及び化學實驗室になつて居り,二階は Bohr 教授一家の住居となつて居た.此研究所の完成により外國の若い理論並に實驗物理學者が次から次へと集つて來た.我國の學者で此處で研究した人も10人近くある.Bohr 教授は日本の留學生に對しては非常に好意を寄せられ,皆愉快に研究に沒頭することが出來た*[#「*」は上付き小文字].
此研究所に最初に來た物理學者は和蘭の Kramers で,助手並に講師として10年近くも滯在したやうである.Kramers が Utrecht に去つた後任は Heisenberg であつたが,其任期は2箇年位であつたらう.Heisenberg が Leipzig に行つた後を O. Klein が繼ぎ,3〜4年の後 Klein が Stockholm に去つて暫くは空席であつたのを,〔Mo/ller〕[#「〔Mo/ller〕」は底本では「〔Mo'ller〕」]が引き繼いで今日に至つて居る.此外に Rosenfeld も既に數年間助手として滯在して居るやうである.之等の助手の中丁抹人は〔Mo/ller〕[#「〔Mo/ller〕」は底本では「〔Mo'ller〕」]1人で,他は皆外國人である.此研究所の空氣が如何に cosmopolitan であるかが解るであらう.又 Hevesy は Manchester 以來 Bohr の親友であつて,中途獨逸の Freiburg に教授として赴任して居た數年を除いては,殆ど最初から此研究所で研究を行ひ,後に述べる元素 Hf の發見後,其化學的研究並に分離を行つた.人工放射能の發見と共に今日では專ら生物學の研究に沒頭し,大切な仕事を出して居る.
此外 Pauli, Dirac, Jordan, Slater, Urey(重水發見者), Gamow, Heitler, Nordheim, Hund, Bloch, Goudsmit, 〔Weizsa:cker〕, Coster, Kopfermann 其他今日物理學界に名を知られて居る人の大半は,長いか短いか此研究所に居つた經驗をもつて居るのである.從つて此研究所は20世紀前半の物理學史上,直接間接に不朽の貢獻をしたものであつて,誰か此研究所の歴史を書き殘して置くことは後日の爲大切なことであらう思はれる.
1931年に此研究所は創立10年記念を祝つた.其際此研究所から發表せられた全部の論文の別刷を集めて一冊とし,これを Bohr 教授に贈呈した.論文の數は約275あつたといふことである.此目録は雜誌‘Fysisk Tidsskrift’(1931) に出て居る.
其後此研究所も次第に手狹くなつて居たが,1923年に米國の Rockfeller Foundation から4萬弗援助を得て擴張を行つた.敷地は Copenhagen 市より寄附することになり,經常費は政府が出し,又丁抹ビール會社 Carlsberg の設立した Carlsberg Foundation も多額の寄附をしたので,研究所の擴張として1925年に先づ Bohr 教授の官舍が隣に新築せられて一家はこれに移られた.そして元の住宅であつた二階は理論の方の人が使ふことになり,又別に工作場と實驗室とを含む1棟が増築せられた.實驗の方の助手 Jacobsen は初め此處で仕事をして居つた.
其後 Bohr 教授一家は,前述の Carlsberg 會社の社長 Jacobsen が學者の爲に寄贈した壯大な邸宅に移られた.それはもう7年前の事である.此邸宅に住む人は丁抹隨一の學者で,同國の學士院が推薦することになつて居る.最初これに住まつたのは哲學者〔Ho'ffding〕で,其沒後 Bohr 教授一家がこれを承け繼いだのである.
最近原子核物理學が盛んとなつたので,Bohr の研究所にも此方面の實驗設備が整へられることになつた.Rockfeller Foundation 及び實業會社方面の寄附によつて,200萬ヴォルトの高電壓電源が建設せられ,且つ丁抹の人である Poulsen の電弧發振器に用ひられて居た,65瓲の電磁石を改造してサイクロトロンが作られつつある.之等を容れるために研究所の建物が増設せられたのは云ふ迄もない事である.これで原子核の問題,生物學の研究が著しく推進せられることと豫期せられる.これ迄此方面の研究は,同地のラヂウム研究所のラヂウム,及び Bohr 教授の50歳の誕生日を祝つて友人たちの贈つた 500mg のラヂウムによつて居たのである.以上で明かなやうに,名は理論物理學研究所であるが,實驗方面に於ても常に世界の第一線に立つやうな設備が整へられて居る.これが結局理論を進める重要な手段なのである.
*[#「*」は上付き小文字] 留學者の氏名:青山新一,有山兼孝,金子五郎,木村健二郎,杉浦義勝,高嶺俊夫,仁科芳雄,福田光治,堀健夫.
§5. 對應原理と原子構造.
Bohr は水素原子の理論を提唱した最初から,量子論に沒頭しながらも古典論から目を離さなかつた.否寧ろ古典論の結果を出來るだけ量子論に利用して其發展を企てたのである.そして此兩者の間には不離不即ともいふべき一種の對應の存在する
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