武百官の任命乃至議院の召集解散等、総て君主の大権に属するが如し。而して其の総裁の就任に関して何等の規定なきを以て、立憲政友会の総裁は固より一般政党の推選首領と其の性質を異にせり。要するに総裁は立憲政友会の主体にして、其の機関には非ず。換言せば伊藤侯の立憲政友会に総裁たるは、猶ほ専制国に君臨せる元首の如く、其の権能は絶対にして無限なり、一般の政党首領は、亦党の一機関たるに過ぎざるを以て、先づ政党ありて而る後に首領あれども、独り立憲政友会に在ては、総裁は即ち立憲政友会にして、立憲政友会ありて而る後に総裁あるに非ず。報知記者伊藤侯を評して、日本政党界のルイ十四世といひたるもの誠に当れり。
自由党は立憲政友会に合同すと称して解党したり。既に合同といへば立憲政友会は対等なる位地に於て自由党を迎へざる可からず。而も立憲政友会の組織は、個人の加入を許すと雖も、対等なる団体の合同を許さず。則ち旧自由党が自ら合同と称すと雖も、立憲政友会に於ては、唯だ旧自由党員たりし各個人の加入を認むるのみ。顧ふに政友会の最大多数は旧自由党員たるを見るに於いて、事実上政友会の大幹部は随つて旧自由党たる可きは無論なり。されど伊藤侯の意思は即ち政友会の意思にして、旧自由党は之れに柔順なる服従を表するの外、何等の意思もなき勢力もなきものなりと認めざる可からず。伊藤侯が単名を以て政友会を組織するに付て用意の周到なる実に斯の如きものあり。
(二)宣言及綱領
伊藤侯の発表したる宣言の大要は、既成政党の言動を論じて、或は憲法の原則と相扞挌するの病に陥りたりと為し、或は国務を以て党派の私に殉ずるの弊を致すと為し、或は宇内の大勢に対する維新の宏謨と相容れざるの陋を形したりと為せり。是れ旧自由党の言動に就て特に戒飭したる意もある可く、将た他の党派に対して非難を加へたる点もある可し。旧自由党が之れを以て毫も自由党に渉らずと弁じ、百方牽強附会の辞を費やしたる報告を配布したるは、唯だ滑稽の極といはむのみ。宣言の内容は三段に分つ可し。其の一は閣臣任免の本義を説き、其の二は政党の国家に対する関係を説き、其の三は政党の規律を説けり。閣臣任免の本義に付ては曰く、抑も閣臣の任免は憲法上の大権に属し、其簡抜択用、或は政党員よりし、或は党外の士を以てす、皆元首の自由意思に存す。而して其の已に挙げられて輔弼の職に就き、献替の事を行ふや、党員政友と雖も、決して外より之れに容喙するを得ずと。是れ純意義に於ける政党内閣を否定して、人材内閣《パーソナル、ガバーメント》を主張したるものなり。乃ち其の内閣と議会との関係を明かにするの文字なきは何ぞ怪むに足らむ。旧自由党総務委員の意見書中、此点に関する陳弁の如何に苦渋を極めたるかを見よ、曰く趣旨綱領中大臣輔弼の責任に言及する所なきが為め、内閣と議会との関係如何にも要領を得ざるの疑をなす者なきにあらずと雖も、大臣は天皇に対し輔弼の責に任ずるは、既に憲法の条章に明にして、其の輔弼の責を全くし、以て国家の要務を挙げんとせば、議会の多数と調和伴行せざる可からざるは事実に徴して明なり。則ち内閣は人心を失し、議会の多数は到底内閣に賛同せず、立法予算の政務を挙げて曠廃に帰せんとするに関せず、議会の調和伴行せざるを以て、一に之を大権干犯と為し、頑として其の位地に拠り、進で調和伴行の道を講ぜずんば、以て輔弼の責任を全くするものと云ふを得ざるべし。而して之を其の発起者たる伊藤侯に見るに、其の超然主義を標榜としたるの当時に於てすら、議会の反対に遇ふて国務を挙ぐる能はざるに至て、其の任免の大権に属するを以て輔弼の責を忽にせず、表を捧げて罪を闕下に待ち、又先年自由進歩両党の合同するや自ら之を後任に奏薦して、引退したる実例あり。今又其の趣旨に於て、輿論を指導して国政の進行に貢献せん、或は帝国憲政の将来に裨補せんと言明せり。一たび此等の諸点を輳合せば立憲政友会の趣旨は、憲政の完成を期し、閣臣の責任を明にしたるものなること釈然たらんと。夫れ議会と調和伴行の道を講じたるは独り伊藤侯のみに非ず、他の藩閥元老亦皆之れを講じたり。其の多数の反対に遇ふて国務を挙ぐる能はざるに至て終に表を捧げて罪を闕下に待つの挙に出でたるものは、他の藩閥元老も亦皆然らざるなし。唯だ伊藤侯の如く再囘議会を解散して尚ほ内閣を固守したるものなかりしのみ、問題は此に在らずして、伊藤侯は果して衆議院の多数少数を以て内閣進退の条件と為すを趣旨とするや否やに在り。而して伊藤侯は此の点に於て何の言ふ所なく、自由党総務委員の陳弁亦此の意義を明解する能はず。
其の政党と国家との関係を説ては曰く、凡そ政党の国家に対するや、其の全力を挙げ、一意公に奉ずるを以て任とせざる可からず。凡そ行政を刷新して以て国運の隆興に伴はしめむとせば、一定の資格を設け、党の内外を問ふことなく、博く適当の学識経験を備ふる人才を収めざる可からず。党員たるの故を以て地位を与ふるに能否を論ぜざる如きは断じて戒めざる可からず。地方若くは団体利害の問題に至りては、亦一に公益を以て準と為し、緩急を按じて之れが施設を決せざる可からず。或は郷党の情実に泥み、或は当業の請託を受け、与ふるに党援を以てするが如きは断じて不可なりと。其の意専ら猟官収賄の行動を排斥するに存し、旧自由党の如き最も中心忸怩たらざる可からず。而も其の総務委員の陳弁を見るに、反つて過を蔽ひ非を飾りて侯の訓戒を無視せむとするは又何の醜ぞ。其の官吏任用に対しては、資格限定の程度と方法は別問題なりと設辞して、尚ほ猟官の余地を後日に留め其の収賄行動に対しては、此等弊竇は我党の深く戒規したる所にして、今更之を一洗するの必要を感ぜず。之を以て暗に我党を指すの言とするに至りては、己れを卑うして自ら疑ふの嫌あるを免かれずといひ、以て毫も自ら反省囘悟するの赤心を示さゞるは、伊藤侯亦恐らくは其の厚顔に驚きたる可きを信ぜむとす。最後に政党の規律を説て曰く、政党にして国民の指導たらむと欲せば、先づ自ら戒飭して紀律を明にし其の秩序を整へ、専ら奉公の誠を以て事に従はざる可からずと。是れ既成政党の無紀律不秩序を咎め、此れより生じたる党弊を革むるを趣旨としたるに在り。余は伊藤侯が主として此の趣意を実行せむことを望まざるを得ず。
綱領や約九個条にして、宣言の註脚といふ可く、其の外交に関しては、文明の政以て遠人を倚安せしめ法治国の名実を全からしめむことを努む可しといひ、其国防に関しては常に国力の発達と相伴行して、国権国利を充全ならしめむことを望むといひ、其の学政に関しては国民の品性を陶冶し、公私各々国家に対する負担を分つに耐ゆるの懿徳良能を発達せしめ、以て国礎を牢くせむことを希ふといひ、其の実業に関しては、農商百工を奨め、航海貿易を盛にし、交通の利便を増し、国家をして経済上生存の基礎を鞏からしめむことを欲すといふの事項稍々政綱らしきを見るのみ。而も是れ何人も異存なかる可き名辞《ステートメント》の排列にして、一党の政綱としては、余りに漠然にして殆ど要領を認むるに難し。されど余の政友会に期する所は、国家経綸の施設よりも、寧ろ党弊刷新に在り。是れ伊藤侯の政友会を発起したる主要の目的亦此に存すればなり。但だ最も党弊に浸潤せる旧自由党を最大要素とせる政友会を率いて、果して能く党弊刷新の目的を達し得可しとする乎。是れ甚だ余の疑ふ所なり。現に侯が田口卯吉氏に請ふに政友会に入らむことを以てするや、彼は侯に向て極度に腐敗せる旧自由党を主力としたる政友会の、到底党弊刷新を期し得可き謂れなきを論じて入会を謝絶したり。島田三郎氏の如きも亦彼れと同一なる観察に依りて政友会と接近するを避けたり。清流の士の政友会に赴かざる所以は実に此れが為めなり。
(三)創立の参謀
政友会の創立に与かれる参謀としては、先づ旧自由党総務委員を以て重もなる人物と為さざる可からず。されど伊藤侯の計画は、勉めて各種の人物と各階級の代表者を網羅するに在り故に投票権の多少よりいへば、旧自由党最も多数の創立委員を出だす可き筈なれども、十二人の創立委員中旧自由党より挙げたるものは僅に四名の総務委員にして、其の余は総べて旧自由党以外の人物を指名したりき。
此等の創立委員中最も新らしき印象を世人に与へたる人物は、男爵本多政以氏と為す。彼れは前田家の旧大老にして、維新前は五万石を領したる加賀の名族なり。其の公人生涯に入りしは、今囘の政友会創立に与かれるを以て始めと為すが故に、其の人物経歴共に未だ多く人に知られずと雖も、伝ふる所に依れば、彼は従来実業に従事して嘗て政治運動に関係したることなく、唯だ其の名望の高きと、其の風采の酷だ近衛公に肖たるものあるを以て、加賀の近衛公と称せられたりといふ。彼れが伊藤侯の勧誘に応じて政友会に入り、以て不慣れなる政治劇の舞台に立つに至りしは、唯だ伊藤侯其人に傾倒せるが為めなりと聞く。伊藤侯が先年加賀地方を遊説したるに際し、彼れは初めて伊藤侯の謦咳に接すると同時に、遽かに侯の崇拝家と為りたるものゝ如し。彼れ政友会に入るに臨み、極めて正直に、有りのまゝに、自己の心事を人に語りて曰く、我家の資産は、祖先が政治上に於て獲得したるものなり。乃ち之れを政治上に於て蕩尽するも亦憾みなしと。奇男子なるかな。
都筑馨六氏が政友会の創立委員たるも亦一異色たるを見る。何となれば、彼れは最も党人を忌み、政党を嫌ひ、政治上に於ては極端の保守主義を持するを以て、曾て属僚中の頑冥派なりとの目ありたればなり。憲政党内閣の成るや、彼れは大隈伯を訪ふて憲法上の論端を開き、帝国の憲法と政党内閣とは決して両立す可からざる所以を切論して、大隈伯の持論を打破せむと試みたるほどの熱心なる非政党内閣論者なり。彼れ又曾て人に語りて曰く、大隈伯は其品性識量共に立派なる政治家なり。唯だ其の周囲を叢擁する者は、大抵無頼野性の党人にして、伯の徳を累はすものたらざるなし。伯が此等の党人を相手として国事を謀るの意甚だ解す可からずと。其の党人を視るや殆ど蛇蝎の如し。今や政友会には最悪最劣の党人頗る多くして、清流の士皆※[#「戚/心」、第4水準2−12−68]顰を禁ずる能はざるに拘らず、彼れは此輩と相追随して前進せむとするは豈奇ならずや。知らず彼れは其の主張を棄てゝ政党に降りし乎。将た其の岳父井上伯が伊藤侯を援助するが為に、義に於て政友会に入らざるを得ざるの事情ある乎。
西園寺公望侯、渡辺国武子、金子堅太郎男の三氏に至ては、是れ純然たる伊藤侯の門下生なれば、則ち侯と進退趨舎を倶にするは亦怪む可きなし。大岡育造氏は、曾て国民協会を自由党に合同せしめて、伊藤侯を其の首領たらしめんと試みたる策士にして、侯の今囘発起せる政友会の創立委員たるは、其の最も満足とし、栄誉とする所たるは無論なる可し。渡辺洪基氏は一たび伊藤侯の四天王の一人なりと称せられたる人なり。其志を政界に得ざるや、乃ち身を実業社会に投じて久しく政治的野心を抑損し、随つて侯と彼れとの関係は次第に杳遠と為りつゝありしと雖も、侯の政友会を組織するに及び、成る可く多く旧政友を糾合するの必要あると、渡辺氏と実業社会との間には多少の連絡あるを以て、彼を通じて実業家を招徠するの必要あるとに依りて、殆ど相忘れむとしたる一門下生に復旧を求めて、之を政友会創立委員の一人に指名したりき。長谷場純孝氏の創立委員に加へられたるは、彼れが薩派を代表するが為めにして、彼に取ては寧ろ望外の栄誉なる可し。彼れは思想に於ても、感情に於ても、若くは其の人格に於ても決して伊藤侯に容れらる可き点を有せず。其の容れられたるは、是れ侯が彼れの代表権に重きを置きたる証なればなり。
(四)帰化したる敵将
伊藤侯は勉めて各種の要素を収容せむと欲し、敵党の人物と雖も来るものは之を拒まざるの概を示したり。此を以て新を喜び旧を厭ふの軽佻者流、若くは侯の資望勢力に依りて万一の倖進を冀ふものは、争ふて政友会に赴きたり。独り進歩党の領袖として、操守堅固の壮年政治家として議院の内外に高名なりし
前へ
次へ
全35ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
鳥谷部 春汀 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング