て、之れを閣下の聡明に訴へて、万一の反省を求めむと欲するの微意のみ、我輩は曾て閣下に何の恩怨なく、又何の求むる所なし、則ち其歎美す可きを歎美し、攻撃す可きを攻撃するに於て、一に事実と理義に拠りて公明正大の論断を下だすに過ぎざるなり。
相公閣下、率直にいへば、我輩は閣下を当世の大政治家として、其人物を崇拝するものに非ず、又内治外交の政策に付ても、我輩は不幸にして多く閣下に同情を表する能はざるを悲む、さりながら維新の元勲として閣下の功労は遠く伊藤井上の二者に出で、其維新後に於ける文武の事業も、亦赫々として人目に輝くもの多し、乃ち我輩は閣下の人物及其政策に敬服せざるの故を以て、決して閣下の国家に貢献したる功労を忘るゝものに非ずと雖も、此れと同時に、我輩は近来閣下の政治的過失頗る少なからざるを認識し、而して閣下の晩節之れが為めに大に負傷したるの事実をも認識するに於て、こゝに謹で閣下の処決を促がすの公開状を与へんとす。
相公閣下、閣下は議会の盲従に依りて、既に二大宿題を解釈し得たり、一は第十三議会に於ける増租案にして、一は第十四議会に於ける衆議院議員選挙法なり、此二大宿題は共に前代内閣の持て余ましたるものたりしに拘らず、閣下の内閣は終に能く議会の協賛を得たり、閣下の得意も亦想ふ可しと為す、而も此れを以て、閣下の内閣極めて鞏固たるの証と信ぜば甚だ誤れり、况むや其の二大宿題の通過の如き、国家の利害より見れば、必ずしも喜ぶ可き成功なりと認む可からざるに於てをや、且つ閣下は内閣組織以来、前代未聞の政治的過失を行へり、顧ふに此の過失は半ば受動的行為に出で、閣下の本意に非るもの多からむ、凡そ人を殺すは罪悪なれども、故殺と謀殺とは、其犯罪の度合に軽重あり、閣下の過失は譬へば故殺罪の如く、始より予備あるの着手に非る可きも、さりとて閣下固より其過失に対する責任を※[#「二点しんにょう+官」、第3水準1−92−56]がるゝこと能はず、是れ我輩が閣下の為に深く悲む所なり、但だ我輩は閣下の名誉の為に、閣下が此の過失を重ねて益々其徳を傷けざらんことを望み、誠意誠心を以てこゝに謹で閣下の処決を促がすの公開状を与ふ、閣下願くは我輩が以下篇を累ねて説く所を諒とせよ。
※[#始め二重括弧、1−2−54]二※[#終わり二重括弧、1−2−55]
山県相公閣下、世には閣下を目して出処進退に巧みなる人なりといふ者あり、我輩も亦閣下が謹慎にして、常に出処進退に注意するの周到なるを信ずれども、独り閣下が余りに国家を憂ふるに切なるが為に、反つて自家の本領に背きて、漫然今日の難局に当りたるは、我輩甚だ閣下の為に歎惜する所なり、閣下或は国家の急、敢て一身の利害を顧るに遑あらずと言はむ、此の類の言語は、古来往々愛国者の口より聞く所なりと雖も、国家の急は決して斯る単純なる思想の能く済ふ所に非るを奈何せむや。
曩に閣下の内閣を組織するや、自ら天下に告白して、我れは一介の武弁なりといへり、是恐らくは閣下の謙辞に過ぎざる可しと雖も、其の中亦閣下が自ら知るの明あるをも表示せり、今此の自知の明ありて、尋常愛国者の軌轍を脱する能はず、強て国家の急に赴て之を済ふ所以の経綸なく、而して其の有る所のものは一時姑息の施設に非ずむば則ち行政の紊乱と、議院政略の小成功とを見るのみ、是れ豈閣下の初心ならむや。
相公閣下、閣下にして若し其初心を点検せば、閣下恐らくは一日も現時の位地に晏然たる能はじ、我輩の見る所に依れば閣下は初期議会を切り抜けたる時を以て、正さしく閣下が政治舞台の千秋楽と為すべかりき、蓋し初期議会は、我国方に憲法政治の開闢時代に属し、内外の人、皆半信半疑の眼を以て、政府及議会の行動を凝視したり、現に欧洲の学者中には、憲法政治を以て東洋人種に適せずと論ずるものありしを見るに於て、政府も議会も、当時実に世界の公試験を受くるの位地に在りたりと謂ふべし。果して大衝突は始まれり、議会は殆ど解散の危機を踏まむとしたりき、而して閣下は当時の内閣に首班として惨憺の経営を竭くし、終に能く議会を平和の間に閉会せしむるを得たりしは、固より閣下の名誉ならずと謂ふ可からず、閣下乃ち此の時を以て内閣を退きたるは、其の出処進退亦巧みならずと謂ふ可からず、閣下若し当時の隠退を以て永久の政治的訣別としたらむには、閣下は清浄円満なる晩節を保全し得て、帝国憲法史上の第一頁を飾るの人物たらむなり、而して斯くの如きは実に閣下の初心たりしや疑ふ可からず。
惜いかな、閣下は稀有の愛国者たる故を以て、反つて其初心を喪ひ、国家の急を坐視するに忍びずと称して敢て今日の難局に当り、以て初期議会に博し得たる名誉を台無しにするの過失を行ひたり、一昨年閣下が内閣を組織するや、識者は閣下の聡明に異状あるを注目して、窃かに其前途を危みたり、是れ他なし、議会開設以来既に十余年を経過したる時代は、人文の進歩よりいふも、内外形勢の変化より見るも、到底前世紀の賢人等が出現す可き幕ならずと信じたればなり、我輩は必ずしも此見地に雷同するものには非ず、世の所謂る前世紀の賢人中にも、智力根気共に強壮にして、尚ほ能く時代の精神を駆使する人物なきに非ざれども、而も此の見地は、大体に於て真理を外づれざる鉄案たるは論ずるまでもなし。
相公閣下、我輩は閣下の尊敬す可き賢人たるを知る、之を知るが故に、我輩は閣下の生涯に汚点少なからむことを望みたり、之れを望みたるが故に、今や其晩節を傷けたるを見て、閣下の為に※[#「りっしんべん+宛」、第3水準1−84−51]惜するの情も亦随つて切なり、之れを※[#「りっしんべん+宛」、第3水準1−84−51]惜するが故に、乃ち忠実に閣下に向て其の処決を勧告す、是れ負傷したる閣下の晩節に対する唯一の臨床療法なればなり。
※[#始め二重括弧、1−2−54]三※[#終わり二重括弧、1−2−55]
山県相公閣下、閣下にして若し初期議会以後の時代を領解し、曾て超然として政界の外に高踏したりとせよ、我輩は決して閣下の徳を頌するに吝ならじ、顧ふに閣下は前には軍制の改革家として、全国皆兵の主義を実行し、後には市町村制度の創意者として、地方自治の基礎を確立したる人なり、閣下は唯だ此の二大事績に依りて、優に明治第一流の元勲たる名誉を要求し得可し、又何ぞ多きを望みて反つて大に失ふの愚を為す可けむや。
閣下が明治五年陸軍の編制に着手するや、之に反対せるものは、当時軍職を失ひたる多数の旧藩士のみに止まらず、彼の軍人の大首領たる西郷隆盛すらも、亦実に之れに異議を唱へたりき、而も閣下は敢て之れを畏れずして其の所信を断行し、遂に全国皆兵の徴兵令を発表したりしは、之れも伊藤侯が憲法制定の事業に比して、寧ろ著手の困難なりしを疑はず、而して閣下が此の軍制の改革に成功するや、一躍して直に陸軍部内の指導者と為り、特に十年の役には、閣下の最も憚りたる西郷党を残滅して、武力に誇れる薩閥の根拠を抜き以て陸軍省をして遂に長閥の勢力範囲たらしめたりき、今や閣下は、元帥の待遇と陸軍大将の軍職とを有し、凡そ軍人としては此の上もなき最高の位置及び之れに伴へる君寵を享け、即ち所謂る功成り名遂げ、復た世に遺憾なきの人なり、顧みて更に大政治家たらむことを望むは、豈閣下の有終の美を成す所以ならむや。
相公閣下、人生の楽事は自己の天職に忠実なるに在り、閣下曾て日本のモルトケを以て自ら任じたりといふ、而もモルトケは軍人より起りて、軍人に終り、曾て其意を政治上の功名に動かされざりき、是軍事を以て自己の天職なりと信じたればなり、固より我輩は閣下が日本モルトケの自任ありといふを聞て、窃に其の抱負の盛大なるに敬服し、以て伊藤侯が日本ビスマークを自任する意気と併称して近代の双美たるを疑はずと雖も、但だ我輩は閣下が日本モルトケの自任ありて、而もモルトケの如く政治上の功名に淡泊ならざるを甚だ惜むのみ。
或は閣下が自治制度の創意者たりしを以て、閣下に亦た政治的能力ありといふ者あらむ、是れ必らず佞者の妖言にして、閣下は断じて之れに耳を借す可からず、案ずるに自治制度の実施は実に閣下の大功なり、我輩豈に其の大功を滅せむとするものならむや、さりながら政治は別才にして閣下の長所に非らざるは、閣下自から之れを知れり、自から其の長所に非らざるを知りて久さしく之れに干渉するは、恐らくは智見ある閣下の本意なりとも認む可からじ、見よ自治制度は、現に閣下の統督せる内閣の下に於いて、頗る壊敗したるが為に、之れを制定したる閣下の名誉に大なる損害を与へたるに非ずや、蓋し自治制度の壊敗は、一は之れを運用する地方自治体の腐敗にも由れど、之れが監督者たる行政官庁の職責を竭さゞるもの亦其の一大原因たり、而して閣下は啻に行政官庁の曠職を匡救する手段を取らざりしのみならず、又明かに其の手段にも乏しきの失体を現はしたり、此点に付ては、我輩更に後文に於て其事実を挙示す可しと雖も、要するに政治上の位地は、決して閣下の久しく居る可き所に非ず、閣下何ぞ早く之れを自覚して、将に来らむとする運命の危機より脱せざるや。
※[#始め二重括弧、1−2−54]四※[#終わり二重括弧、1−2−55]
山県相公閣下、閣下頃ろ某貴族院議員に対して、余は政治上如何なる困難に遭遇するも、決して自ら骸骨を乞ふが如きの挙には出でず、既に第十四議会も幸ひに無事の通過を得たれば、余は来る第十五期及第十六期の議会までも此の内閣を持続して、百般の政務に改善を加ふる心算なりと語れるを伝ふるものあり、是れ之れを伝ふるものゝ妄に非ずむば、恐らくは閣下の心事を誤解するものゝ臆測ならむ。
事実を直言するに、閣下の内閣は、過去一年有半の間に於て、啻に政務に付て何の改善したるものなきのみならず、反つて其失政の大なる、議会開設以後の内閣中、最も顕著なるものなり、議会若し健全にして良心に富み、真に国民の利害を代表するの行動あらば、必らず一日も閣下の内閣と両立せずして、早く第十三議会に於て破裂を見たりしや疑ふ可からず、然るに内閣の相手とせる議会は、醜怪なる多数党派の毒泉に涜がされて其の良心を喪ひ、内閣の失政を匡救するを為さずして、寧ろ之れを助長せしむるの行動に出でたり、是れ閣下の内閣が、幸ひに原形を今日に保つを得たる所以なり。
故に閣下の内閣にして依然今後に存立することあらむか、此一方に於て議会の愈々腐敗する運命を予想す可く、一方に於ては又閣下の失政益々増加するをも予想せざる可からず、斯くの如きは豈国民の能く忍ぶ所ならむや、我輩は必らずしも好で閣下の過失を追究せむとするものには非ず、さりながら閣下にして之れを自覚せざる以上は、我輩は有りのまゝに事実を挙示して閣下の反省を求めざる可からず、顧ふに閣下が一介の武弁を以てして今日の難局に当る初より経綸の一も観る可きものなきは又当然なりとせむ、而も閣下が自ら天下に宣言したる言責を実行せずして、随つて国民の閣下に予期したる冀望の悉く水泡に帰したるは、我輩の甚だ遺憾とする所なり。
相公閣下、閣下内閣組織以来屡※[#二の字点、1−2−22]官紀振粛秩序保持の美辞を使用したり、而も閣下の内閣は、官紀振粛の代りに、官紀大に紊乱したる事実を示し、秩序保持の代りに、秩序頗る壊頽したる証迹を現はしたるは何ぞや、但し此般の事実は既に天下公衆の知悉する所たるに於て、今敢てこゝに之を詳述するの必要を見ずと雖も、我輩は閣下が有名なる謹厳方正なる風采家たるを尊敬し、而して閣下の内閣が、斯る謹厳方正なる風采家と背馳するの行動あるを怪事とし、乃ち次に其の大要を挙げて閣下の明鑑を仰がむとす。
※[#始め二重括弧、1−2−54]五※[#終わり二重括弧、1−2−55]
山県相公閣下、我輩は曾て多くの冀望を閣下の内閣に属せざりしと雖も、独り官紀振粛の一事は閣下専売の政綱たりしを見るに於て、中心実に此点に於ける閣下の特色が十二分に発揮せられむことを期したりき、而も其事実に現はれたるものを観れば、閣下専売の貴重なる政綱は、殆ど悉く破壊せられて
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