一座たる人を指名せよと求めば、子は必ず山県侯を指名せむ。是れ侯は三尊中最も大なる潜勢力を有する人たればなり。伊藤侯は潜勢力なきに非ず※[#白ゴマ、1−3−29]されど其現在の位地は寧ろ孤立なり※[#白ゴマ、1−3−29]一見すれば其名望甚だ広大なる如くなれども、実は漠然として定形なき名望のみ※[#白ゴマ、1−3−29]侯と利害休戚を同うするものは、伊東巳代治、末松謙澄、金子堅太郎の二三あるに過ぎずして、其領分は頗る狭隘なるものなり※[#白ゴマ、1−3−29]井上伯に至ては、殆ど純然たる政友を有せず、其有する所のものは、山県侯の系統に属する人物にして、伯に専属するものにはあらじ。例へば都筑馨六、小松原英太郎、藤田四郎、古沢滋の如き其他中央官府及び地方庁に散在する属僚の如き、皆是れなり。
顧みて山県侯の系統を見よ、現内閣に於ては、清浦奎吾、曾禰荒助、桂太郎の三氏固より侯の直参たり※[#白ゴマ、1−3−29]荒川顕正子の如きは、世人或は伊藤系統に属するものなりと想像するものあれども、子は夙に山県侯の推挽によりて漸く顕要の位地を占めたる人なるを以て、若し両侯両立せざるの時あらば、子恐らくは、伊藤侯に背くも山県侯に背く能はず※[#白ゴマ、1−3−29]青木周蔵子の傲岸不遜は、伊藤侯にも井上伯にも忌まるれど、独り山県侯は善く之れを容れ、第一次の内閣にも外務大臣の椅子を与へ、今の第二次内閣にも又子を外務大臣と為す※[#白ゴマ、1−3−29]故に子は深く侯を徳として其腹心なるを甘むず。児玉台湾総督は、伊藤内閣の時代に用いられたる人なれども、其系統をいへば山県派に属し、前々警視総監たりし園田安賢男及び現警視総監大浦兼武氏は、長化したる薩人を以て目せられ、共に山県侯の幕下たり、園田男は曾て伊藤侯にも信任せられたる人なれども、大隈内閣の成立せる当時より、遽かに伊藤侯の政見を非として純然たる山県崇拝家と為れり※[#白ゴマ、1−3−29]会計検査院長渡辺昇子は世人之れを伊藤系統の人なりといへども、其思想感情は寧ろ山県侯に近かく、検査官中の老功中山寛六郎氏は、今や満身錆※[#「金+肅」、第3水準1−93−39]の廃刄なれども、一時は属僚中の尤たりしが、氏も亦山県侯に恩顧ある人なり※[#白ゴマ、1−3−29]現宮内大臣田中光顕子は土佐出身なれども、其精神は夙に之れを山県侯に捧げたる人なり※[#白ゴマ、1−3−29]現法制局長平田東助氏は、政府部内に於ける一方の領袖にして、而も山県侯の参謀と称せられ、現内閣書記官長安広伴一郎氏は、後進の一敏才にして、而も山県侯の智嚢たり※[#白ゴマ、1−3−29]野村靖子は第二次伊藤内閣の逓信大臣たりし時、属僚の為めに放逐せられたる敗軍の将にして、今は枢密院に隠るゝ人なれども、山県侯一たび之れを招げば、履を逆まにして之れに馳せむ※[#白ゴマ、1−3−29]看来れば山県系統の四方に蔓引すること実に斯くの如きものあり。
此故に侯が政府部内及び貴族院に於ける潜勢力は、薩長の元勲中一人として之れに及ぶ者あるなし※[#白ゴマ、1−3−29]先づ政府部内に就ていはむか、内務省は近来自由派の為めに踏み荒されたれども、山県侯が曾て久しく統治したる領分なれば、其根拠の鞏固なる容易に抜く可からざるものあり※[#白ゴマ、1−3−29]司法省に於ける山県系統は亦頗る広く、其清浦派と目せらるゝものは、総べて山県系統と認めて可なり、逓信省は之を前にしては野村靖子に依て、之れを中ころにしては、故白根専一男に依て、之れを今にして芳川顕正子に依て其山県侯の領分を開拓したること少なからず※[#白ゴマ、1−3−29]若し夫れ陸軍省に至ては、是れ殆ど侯ありて始めて陸軍省ありと謂ふ可くして、侯が外に在るの日と雖も、侯の威信は隠然として省中の魔力たり※[#白ゴマ、1−3−29]而して侯の系統の及ばざる所は、薩人の領分たる海軍省と赤門、茗渓両派の争点たる文部省及び松方伯の根拠たる大蔵省にして、農商務省は曾て品川子の大臣たりし時、多少山県侯の系統を引き入れたることあるは人の知る所なり※[#白ゴマ、1−3−29]次に貴族院に就て之れをいはゞ、彼の研究会の如きは、其初め実に第一次の山県内閣に依て種子を播き、山県派の人物に依て次第に培養せられたるものなり※[#白ゴマ、1−3−29]現に清浦氏は研究会の領袖として之れを操縦するに非ずや※[#白ゴマ、1−3−29]伊東巳代治男の如きは、一時研究会の黒幕と称せられたることありしも、其信用は到底清浦氏の敵に非ざる無論なり。
其二 山県侯と国民協会との関係
国民協会は山県侯の直接に関係したる政団に非ず※[#白ゴマ、1−3−29]之を組織したる張本は西郷侯品川子の二人にして、組織に参与せるものは、樺山伯高島子及び故白根男なり※[#白ゴマ、1−3−29]而して其最初の目的は実に藩閥を擁護せむとするに在りき※[#白ゴマ、1−3−29]されど第二次松方内閣起るに及て、協会員中の薩派に属するものは大抵分離し去て、今や協会は殆ど純粋の長派と為れり※[#白ゴマ、1−3−29]但し佐々友房氏は、今も尚ほ薩長聯合の旧夢に迷ふ人なれど、多数の会員は全く長派に傾き、中にも山県崇拝の感情を有するもの最も多し。首領品川子は、山県崇拝の随一にして、大岡育造氏の如きも寧ろ山県系統に属せり。大岡氏は井上侯にも、伊藤侯にも親密の関係あれども、個人としては最も山県侯に深縁あり。されど氏は常に長派の統一を謀るを以て念とし、特に伊藤山県両侯の調和者として、近来頗る努力しつゝあるは、既に公然の秘密なり。
案ずるに山県侯は、其思想性格に於て大に伊藤侯と合はざる所あり。山県侯は保守的思想を有し、伊藤侯は進歩的思想を有し、山県侯は謹厳端実の性格にして、伊藤侯は磊落滑脱の気質なり。且つ山県侯は由来神経質の人物にして、動もすれば厭世主義に傾けども、伊藤侯は快豁なる多血質にして、楽天主義の人物なり。其公私の行動に於て往々衝突することあるは、亦已むを得ずと謂ふ可し。大岡氏は政治家としては固より伊藤侯を推す可きも、山県侯とは亦切て切れられざる関係あるに於て、其両侯の睚眦反目を融解せむと勉むるは何ぞ怪むに足らむや。
山県侯が第二次内閣を組織するや、協会員中議論二派に分かる。甲は絶対的に内閣を助けむと主張して、乙は超然内閣にては反対するの外なしと主張し、大岡氏の如きは寧ろ後者の主張者たりしと雖も、是れ唯だ一時の権略にして、実は山県内閣をして自由派と提携せしめむとするの意たりしならむのみ。蓋し山県内閣をして自由派と提携せしむるは、是れ山県伊藤両侯をして調和せしむる所以なればなり。而して大岡氏は終に其目的を達せり。山県侯は一切の感情を棄てゝ自由派と提携し、伊藤侯も亦其挙を賛して、背後より山県内閣に応援す可きの約を為したり。此に於て国民協会は純然たる山県内閣の与党と為ると共に、衆議院に一名の政友を有せずと目せられたる山県侯は、此に新たなる忠実の政友を有するに至れり。
其三 山県系統の両派
国民協会は既に山県侯の忠実なる政友と為れりと雖も其中固より両派あり。保守主義を有するものと、進歩主義を有する者と是れなり。首領品川子は稍々保守主義に近く、政党内閣には反対の意見を有する人なり。佐々氏の熊本国権派は、初めより絶対的に政党内閣を非認する保守主義を有するものたり。之に反して大岡、元田等の一派は、時勢の変に際して政党内閣の避く可からざるを信ずるものなり。彼等は精確の意義に於ける進歩主義を有するものにあらざれども、少なくとも時勢と推移するの術を解するものなり。此点に於て佐々等の国権派と内政に対する政見を異にするは疑ひもなき事実にして、其山県侯の為に謀る所以のもの随て自ら径庭あるを見る可し。国民協会以外に於ける山県系統の人物を見るに、亦進歩保守の両派に分かれたり。保守派の最も極端なるものは、都筑、園田、野村、古沢等にして、彼等は啻に政党内閣を忌むこと蛇蝎の如くなるのみならず、政党と提携するすら既に内閣の尊厳を失ふものなりと信ずるものゝ如し。憲政党内閣の成るや、園田男は其内閣を認めて帝国の国体を破壊するの内閣なりと罵り、自ら警視庁を煽動して之れに反抗を試みむとしたる人なり、野村子は曾て客に語りて、議会は幾たびにても解散して可なりと主張し、予算不成立の不幸は、内閣大臣以下腰弁当にて之れを償ひ得可しとの奇論を吐きたる人なり、古沢氏は往時自由党に入りて民権を唱へたる人なれども、其後長派の恩顧を受くるに及で、一変して藩閥党と成り、近来は帝王神権説を主張して、極力政党内閣に反対し、都筑氏は、井上伯が嘗て官吏と為るの外には潰ぶしの利かぬ男なりと評せしほどの自然的吏人にして、吏権万能の主義を固執せる保守的人物なり。山県内閣の将に自由派と提携せむとするや、氏は最も強硬なる非提携論者にして、山県侯に勧むるに飽くまで超然内閣の本領を立つ可きを以てしたりといふ。聞く氏は山県系統中に在て、最も才気峻峭なる壮年政治家なりと。然るに其時務を弁ずるの迂濶なること斯の如きは、豈学に僻する所あるが為ならずや。朝比奈知泉二宮熊次郎の両氏は、山県侯に深厚なる同情を表する政論家なり。朝比奈氏は曾て侯の機関たる東京新聞主筆として、夙に非政党内閣を主張し、其後日々新聞に筆を執るに及でも、終始其主張を改めざる人にして、其屠竜縛虎の雄文一世を傾倒して何人も敵するものなし。聞く非政党内閣は氏の持論なりと。二宮氏は曩きに独逸に留学して、国家主義を齎らし帰り、今や現に『京華日報』の主筆として、日に政党攻撃の文を草し、伊藤侯が内閣を憲政党に引渡したるの挙を目して乱臣賊子の所為なりと極論したることあり。此両氏は共に山県系統の保守派にして、唯だ朝比奈氏は二宮氏に比して少しく温和にして変通あるを異りとするのみ。
更に山県系統の進歩派を見るに、実は極めて少数にして、正直に政党内閣を信ずる者は、恐らくは絶無なる可し。されど清浦、曾禰、桂等の諸氏は半ば政党内閣を信じ、青木子に至ては十中八九までは政党内閣論に傾き、現に山県内閣成るの前、自ら憲政党に入党を申込みたりといふを見れば、子は遠からずして政党員たるの日ある可し。
山県系統は以上の如く両派に分かれ、両派互に侯を擁して、第二次内閣を組織したるを以て、其内閣は超然を本領とするにもあらず、政党を基礎とするにもあらざる雑駁の内閣を現出するに至れり。世間或は山県侯を以て憲法中止論者とするものあれども、事実は大に然らず。侯は謹慎周密の小心家にして、決して憲法を中止するが如き大英断を施し得る如き人物に非ず。唯だ侯の系統に属する属僚中に無責任の激論を為すものあるが為め、世人をして侯を誤解せしめたるのみ。但し昨年伊藤内閣の末路に方りて、宮中に元老会議あり。伊藤侯の提出したる善後策に対して、黒田伯の憲法中止論出でたるは、事実として伝へられたれども、是れとても伯が熱心に主張したるには非ざりしといふ。山県侯の謹慎を以てして、豈斯くの如き暴論を唱ふることあるべけんや。
余は曾て侯は出処に巧みなる人なりと評したることあり。其今囘に処する所以の者を観るに、亦頗る其巧処あるに感服すと雖も、侯は到底政治家に非ず。久しからずして必らず退隠せむ。唯だ其現在の位地は、侯が従来養ひ来れる潜勢力によるものなるを知らば、侯の潜勢力にして存在する限りは、侯は決して未だ政界の死人に非ずと知るべし。(三十二年一月)
山県首相に与ふ
※[#始め二重括弧、1−2−54]一※[#終わり二重括弧、1−2−55]
侯爵山県公閣下、我輩は多年閣下の政敵として論壇に立つものなりと雖も、閣下の徳を頌するに於て、亦敢て政府の属僚に譲らざるの誠実を有せり、彼の政府の属僚が閣下の徳を頌するや、動もすれば其過失をも弁護して閣下を誤らむとするものあり、我輩の閣下の徳を頌するや、唯だ其頌す可き所以を頌して、有りのまゝに所見を披陳するに外ならず、随つて閣下の過失を挙示して忌憚なき所あるも、故らに訐いて以て直とするには非ずし
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