彼れに於て復た何の遺憾あらむ。况むや生きて第一期の時代事業を完成し、併せて其の当初の理想を実現したる政党内閣をも、一たびは大隈伯と聯合して之れを組織したることあるをや。彼れは第一期の時代事業に竭くす可かりし精力を余まして、之れを第二期の事業にも使用したるがゆゑに、是れ所謂る強弩の末、魯縞を穿たざるもの。記者は寧ろ彼れが退隠の遅かりしを惜む。
 顧ふに旧自由党は、彼れと与に産まれて、彼れと与に成長したるものなり。彼れ一旦悟る所あるや、何の惜気もなく、無代価にて之れを伊藤侯に譲与したりき。是れ人情の忍び難しとする所なれども、彼れに在ては疑ひもなく明哲の処置たり。蓋し今の政治界に立つものは、皆権勢利禄を得むことを目的とし、此の目的を達するに最も都合善き首領を求めて之れに頼らむと欲するものに非るなし。而も彼れの位地及び人物は此の点に於て党人の望を繋ぐに足らざるを如何せむや。彼れが人情の忍び難きを忍びたるは、更に之れよりも一層忍び難きものあるを恐れたればなり。

      其三 社会改良
 円卓を隔てゝ彼れと語れる記者は、如上の理由に依りて彼れの退隠に同情を表するを禁じ得ざりき。此に於てか彼れの社会事業は、又た満腔の敬意を以て之れを迎へざること能はざりき。彼れは社会改良の必要なる所以を説て曰く、
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憲政の完美を謀らむとせば、社会の根柢を鞏固ならしめざる可からず。社会の公徳腐敗しては、独り政治の健全ならむことを望むも難からずや。而して社会の公徳は、宗教家若くは道学先生の説教のみにて維持し得可きに非ざれば、先づ有形上の礼節作法より矯正し始むるを要す。是れ余が風俗改良に着手したる所以なり。
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彼れは※[#「女+尾」、第3水準1−15−81]々として順序正しく語り出だせり、彼れは風俗改良の手段としては、次に国民の音楽にも注意せざる可からずといひて、泰西の楽譜曲調を直訳したる学校音楽は、日本国民の趣味に適せざるがゆゑに之れを改良すべき必要ありと説きたり。彼れは憐れなる盲人の生活状態を進めむが為に、盲人教育の必要ありと説きたり。彼れは鰥寡孤独の救恤男女労働者の保護は、共に国家の責任に属する重要なる問題なるがゆゑに、前年内務大臣たりし時、既に属僚に命じて調査せしめたることありと説きたり。彼れは之れを説きつゝ、或は瞑目して熟考する如く、或は眉を軒げ手を揺がして語気を助けたりき。最後に彼れは最も興味ある佳語を以て、記者の傾聴を促がしたり。
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余を顧問としたる婦人同情会は女囚携帯乳児保育会なるものを組織したり。是れ其の名の如く女囚の携帯乳児を引取りて、之れを保育するを目的とする慈善事業なり。凡そ襁褓の乳児にして、其の母の有罪なる為めに、均しく獄中に伴はれて陰欝なる囚房の間に養育せらる、天下豈此に過ぐるの惨事あらむや、彼れ携帯乳児の、斯く獄舎の生活に慣るゝや、反つて普通児童の活溌なる遊戯を喜ばずして、再び獄舎に入らむことを望むものあるに至る。
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彼れは談じて此に至り、殆ど感慨に堪へざるものゝ如く、其の瞼辺は少しく湿るみ、其声は少しく顫ひぬ。
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一女囚の携帯せる乳児は、母乳の不足なるが為に、麦飯の※[#「睹のつくり/火」、第3水準1−87−52]液《オモユ》を飲用せしめたるに、激烈なる下痢を起して死に瀕したり。婦人同情会は之れを引取りて治療を加ふるや、此の半死半生の乳児は、忽ちにして健康体に復したりき。母の刑期満つるを聞きて、其の監獄に携へ往きて母子を会見せしめたるに、母は喜び極まつて泣き、以後決して罪悪を犯さずと誓へりとぞ。又た一乳児あり、声を発する毎に臍凹み頭脳は腫張して頗る畸形なりき。其の病源は不明なれども兎に角之れを引取りて養育したるに、頭脳は常態に復し、臍部の奇観も止みたりき。
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彼れは※[#「口+荅」、第4水準2−4−16]然として笑へり。冷やかなる笑に非ずして温かなる笑なりき。彼れは遽に容を改め、極めて荘重なる弁舌を以て犯罪を天性に帰するの理論を否定せり。彼れは犯罪を以て人生の不平に原本すと為し、家に財なく、身に技術なきは不平の由て起る所なるがゆゑに、犯罪を減少せむとせば、国家は貧民に教育を与へて、生活に必要なる技術を授けざる可からずと熱心に論じつゝ、静に椅子を離れて伝鈴を押せり。彼れは響に応じて来れる書生に、婦人同情会規則を持参す可きを命ぜり。斯くて一葉の印刷物を記者に渡たしたる彼れは、稍々其の顔面を曇翳を浮かべつゝ、
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真の慈善家は大抵資財なく、富めるもの多くは慈善家にあらず、儘ならぬ世や。
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と語り終りて座に復せり。

      其四 彼れの人格
 記者が彼れに於て見たる人格には、胆識雄邁、覇気人を圧する大隈伯の英姿なく、聡敏濶達、才情円熟なる伊藤侯の風神なく、其の清※[#「やまいだれ+瞿」、第3水準1−88−62]孤峭にして、儀容の端※[#「殼/心」、43−上−8]なる、其の弁論の直截明晰にして而も謹厳なる、自ら是れ義人若くは愛国者の典型なり。土佐人士には二種の系統あり、一は冷脳にして利害に敏なる策士肌の系統にして、故後藤伯之れを代表し、大石正巳林有造等の人格は之れに属せり。一は温情にして理想に富める君子肌の系統にして、板垣伯之れを代表し、故馬場辰猪植木枝盛等の人格之れに属せり。谷干城子の如きも、孰れかといへば寧ろ後者に近かく、唯だ其の板垣伯と異る所は、主義のみ、信条のみ、有体に評すれば、谷子は保守主義の板垣伯にして、板垣伯は進歩主義の谷子なり、更に語を換へていへば、谷子は東洋的板垣伯にして、板垣伯は欧化したる谷子なり。
記者は彼れの応接間を辞せむとしつゝ、端なく三個の額面に注目を導かれぬ。彼れは記者の問に応じて身を起し、先づ南面の壁上に掛れる金縁の大額を説明して曰く、
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是れ普仏戦争後に於ける第一囘の仏国国民議会なり。左側に起立し、頻りに手を揮つて何事か発言しつゝあるの状を為せる鬚武者の男は、有名なるガムベツタ[#「ガムベツタ」に傍線]なり。彼れは急進過激党の首領として、断然共和政府を建設す可しと主張し、当時盛むに国民議会の議場に暴ばれたりき。中央の椅子に坐を占め、群衆に取り囲まれて沈思黙考しつゝあるは、穏和党の首領チエール[#「チエール」に傍線]なり。彼れは共和政府建設論に対して、猶予決する能はざるが為に、急激党の難詰を受けつゝあるなり。
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彼れは更に他の一額に向へり。是れ伊太利統一後始めて開きたる伊太利議会の写真なりき。彼れの持てる扇子は、起立せる異装の一漢子に触れたり。彼れは曰く、
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見よ、破れたる軍帽を冠むり、長がき外套を着し、一人の従者を伴ふて議場の片隅に起てる質朴漢は、是れ議会の光景を見むとて来れるガリバルヂー[#「ガリバルヂー」に傍線]なり。
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彼れは曾て日本のガリバルヂー[#「ガリバルヂー」に傍線]を以て称せられたりき。其の多感にして侠熱ある、夫れ或はガリバルヂー[#「ガリバルヂー」に傍線]に私淑する所あるに由るか。最後に彼れの説明せる石版絵の額は、此応接間に於て最も珍奇なる紀念品たりき。旧式の武装を為したる十四五人の軍人は、或は鉄砲を捧げ、或は刀を撫して撮影せられぬ。而して彼れは三十歳前後の血気盛りなる風貌に於て其の中に見出されしが、其の面影は今も争はれぬ肖似を認識せしめたりき。此石版絵は、彼れが会津征伐より凱旋して、部下の士官を随へ、江戸市中を遊観したる時、通り掛けの写真屋にて撮影したるものゝ複製なり。彼れは之れを説明しつゝ滄桑の感に堪へざるものゝ如し。
 顧れば彼れの出発点は軍人にして、中ごろ改革家と為り、国会論者と為り、政党の首領と為り、終には社会改良家と為りて、最も平和なる生涯に入る。是れ譬へば急湍変じて激流と為り、更に変じて静流と為り、而して後一碧洋々たる湖沼と為れるが如し。此の点よりいへば、人生自然の順序を経過したりといふ可し。然れども彼れの生涯を一貫して渝らざるものは、利害よりも良心に動され易き性情是れなり。是れ彼れの彼れたる所以なり。(三十五年十月)

     古稀の板垣伯

 ※[#丸中黒、1−3−26]三月十八日紅葉館に開かれたる板垣伯古稀の寿筵は、無限の同情と靄々たる和気とを以て満たされた近年の盛会であつた。伯の晩年は甚だ寂寞で、殆ど社会に忘られて居つたが、而も伯は社会に忘れらるゝのを怨みもせず、悲みもせず、又毫も自分に対する国民の記憶を要求もしない。こゝらが板垣伯の人格の尊い所であらう。
 ※[#丸中黒、1−3−26]元来伯は犠牲的精神に富める義人の典型であつて、政治家といふ柄ではない。故に政治上に於ては、伯よりも大なる事業を成した人は幾らもある。併し功労の多少は別問題として、伯は明治史劇の或る重なる部分を勤めた役者であるに相違ない。
 ※[#丸中黒、1−3−26]民権自由論は決して伯の専売品ではない。故木戸公や、今の伊藤侯大隈伯などは、伯よりも以前に、少なくとも伯と同時代頃には、民権自由の意義を領解して居つたのである。士族の特権を廃して四民平等の制度を設けたのは、即ち民権自由論より割り出した改革で、此の改革は、勿論伯一人の発議ではないのである。
 ※[#丸中黒、1−3−26]民選議院設立の建白といつても伯の首唱ではなく、当時の政府反対党が案出したる政略的意見であるといふ方が適当である。伯は其の連名の一人たる外に、更に特筆大書すべき異彩を有した訳ではないのである。
 ※[#丸中黒、1−3−26]立憲政治を最も親切に研究した政治家は、故木戸公で、地方官会議を開いたのは其の準備であつたといつても宜しい。故木戸公のみならず、維新の元勲諸公は総て立憲政治の必要を認めて居つたのである。論より証拠、維新の元勲中、誰れあつて立憲政治に反対した者がなかつたのを見ても分かる。
 ※[#丸中黒、1−3−26]切にいへば、明治政府は最初より立憲政治を主義としたものである。維新の大詔に、万機公論に決すべしとありしは、最も明快に此の主義を宣示したので、明治初年早くも集議院といへる会議組織の官衙を設けたのも、立憲政治の地ならしを試みたのである。
 ※[#丸中黒、1−3−26]されば二十三年の国会開設は、明治政府が維新以来準備して居つた大事業を完成したまでゝあつて、板垣伯の運動に余儀なくされたのでも何んでもないのである。
 ※[#丸中黒、1−3−26]且つ板垣伯の主張したる民権自由論は、仏国革命時代に行はれたルーソー民約説の流れを酌んだもので、日本の国体とは両立し難き危激な理想を含んで居つた。今日では何人も斯る民権自由論を唱ふるものがない、恐くは伯自身に於ても全く其の持論を一変したのであらうと考へる。
 ※[#丸中黒、1−3−26]要するに、伯は立憲政治の建設に第一の功労ある人ではない。伯は夢の如き理想を以て夢の如き公生涯に浮沈したに過ぎないのである。
 ※[#丸中黒、1−3−26]併しながら伯のエライ所がないでもない。それは私党を作らずして公党を作つたことである。老西郷の私学校は一種の私党で、老西郷の人物を崇拝する連中の団体であつた。当時政府に反対するものは、動もすれば私党を作るの傾向があつて、前原一誠の如き、江藤新平の如き、皆私党を率いて事を挙げたのであつた。然るに伯は民権自由論の一点張りで、唯だ理想を宣伝することのみを勉めた。畢竟伯は政権を得むとするの野心がなく、偏へに民権自由論を鼓吹するを目的としたからである。自由党は其の結果として生れたのである。
 ※[#丸中黒、1−3−26]若し伯にして政権の分配に与らむとする意があつたとすれば、民権自由論は極めて不利の武器であつた。伯は此の武器に依て却つて政権より遠かつたのである。
 ※[#丸中黒、1−3−26]一体伯は私党を作るには不向の性格を有して居るかも知れない。私党は人を本位
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