侯は政黨内閣の運命に對して近年まで半信半疑の間に彷徨したりき[#「侯は政黨内閣の運命に對して近年まで半信半疑の間に彷徨したりき」に白丸傍点]。今や侯は政黨内閣を組織して、憲政の完成を以て自ら任とせり。而かも今日は侯の實力を試驗するに最も適當なる時代なるを見るに於て、侯たるもの亦大に奮ふ所なかる可からず。何故に今日を以て侯の實力を試驗するに最も適當なる時代なりといふや。曰く侯にして若し其の理想を新内閣の上に行ふこと能はずして[#「侯にして若し其の理想を新内閣の上に行ふこと能はずして」に白丸傍点]、之れをして見苦るしき失敗を取るが如きことあらしめば[#「之れをして見苦るしき失敗を取るが如きことあらしめば」に白丸傍点]、其の結果として畏る可き保守的反動を惹き起すことなきを保す可からざればなり[#「其の結果として畏る可き保守的反動を惹き起すことなきを保す可からざればなり」に白丸傍点]。此の點よりいへば[#「此の點よりいへば」に白丸傍点]、侯は實に憲政の安危に負ふ所の責任甚だ大なりといふ可し[#「侯は實に憲政の安危に負ふ所の責任甚だ大なりといふ可し」に白丸傍点]。
惡口に長ずる批評家は、侯を目して觀兵式の大將なりといへり。是れ侯が無事の日に壯言大語すれども、一たび難局に逢へば、心手忽ち萎縮して自己の責任を※[#「二点しんにょう+官」、第3水準1−92−56]がるゝ迹あるを以てなり。侯の政友會を創立するや、其堂々たる宣言實に人聽を聳かすに足る者あり。而も之を實行するは談決して容易ならず。所謂る政黨の弊害を矯正すといふ如きも、先づ内閣の威信を立て、行政の紀律を振肅するに非ずむば、政黨の弊害を矯正すこと頗る難事に屬せり。例へば政黨の行政權に干渉するの行動あるは[#「政黨の行政權に干渉するの行動あるは」に傍点]、内閣に之を排除するの威信なきが爲にして[#「内閣に之を排除するの威信なきが爲にして」に傍点]、苟も内閣自ら憲法上の權域を正うして政黨に臨まば[#「苟も内閣自ら憲法上の權域を正うして政黨に臨まば」に傍点]、政黨漫りに自ら行政權に干渉し得可きに非ず[#「政黨漫りに自ら行政權に干渉し得可きに非ず」に傍点]。侯は首相獨裁の内閣を理想とすといふ。是れ大に可なり。宜しく此の理想を實行して新内閣の統一を謀り、各大臣をして悉く侯の手足たらしむべきのみ。是れ曾てビスマークの實行したる理想にして、獨逸の内閣制は實に此の理想を基礎としたるものなり。されどビスマーク死するや、獨逸復た之れに次ぐの實力ある政治家なく、隨つて首相獨裁の内閣制は、事實に於て空名に歸したりき。伊藤侯にして果して之れを實行し得るの實力あるに於ては[#「伊藤侯にして果して之れを實行し得るの實力あるに於ては」に白丸傍点]、内閣の威信を立て[#「内閣の威信を立て」に白丸傍点]、行政の紀律を振肅する亦易々の業のみ[#「行政の紀律を振肅する亦易々の業のみ」に白丸傍点]。余は政黨の矯正よりも先づ此の理想の實行を以て侯に望まざるを得ず[#「余は政黨の矯正よりも先づ此の理想の實行を以て侯に望まざるを得ず」に白丸傍点]。
顧ふに侯は先づ十分政友會を訓練し、然る後、内閣を組織して其の理想を實行せむと期したるものゝ如し。されど山縣内閣は、侯の成算未だ熟せざるに早くも總辭職の擧に出でたり。侯の狼狽想像するに餘りありと雖も、侯にして苟くも既に自ら起ちたる以上は、唯だ勇往邁進して其の理想を實行するを期す可きのみ。又何ぞ成算の未熟を以て念とすべけんや。
(下)新内閣の人物
伊藤侯の最初の内閣役割案には、政友會以外に於て井上伯及び伊東男の二人を算入したりしは殆ど疑ふ可からず。但し井上伯は老來野心漸く消磨したりといへば、自ら進で閣員たらんとするの目的ありしとは信ずる能はずと雖も、伯は政友會の創立には熱心なる世話人たり、新内閣の出産には老練なる産婆役たりしを以て、更に新内閣の保姆として重要なる一椅子を占むる權利を有したりしは無論なり。而して伊藤侯も亦之れを以て、伯に望みたりしは、既に公然の秘密なり。單に新陳代謝の必要より論ずれば、老骨井上伯の如きは、むしろ新内閣の伍伴たらざるを喜ぶべしと爲す。されど伯にして若し内閣の一員たりしとせむか、其の一種の潛勢力は多少内閣に威重を加へたりしやも知る可からず。伊東男に至ては、其の人品或は議す可きものありと雖も、其行政の才固より當世に得易からず。伊藤侯が彼れを新内閣に羅致せむとして慫慂頗る勉めたるは又當然といはんのみ。况んや彼れは伊藤侯と切て切れざる關係あるに於てをや。
然るに伊東男は、最初より入閣を肯んぜず。井上伯は内閣組織の間際に於て突然失蹤したるは何ぞや。世間傳ふる所に依れば、伊東男は近頃漸く伊藤侯に親まずして反つて山縣侯に接近しつつあり。是れ入閣の勸告を拒絶したる所以なりと。此の説恐らくは揣摩臆測にして眞相を得たるものにはあらじ。余の聞ける所にては、伊藤侯は二三年以來頓に健康に異状を呈し[#「伊藤侯は二三年以來頓に健康に異状を呈し」に白丸傍点]、筋肉の機能次第に衰憊したると共に[#「筋肉の機能次第に衰憊したると共に」に白丸傍点]、神經系統の感應作用は反つて過敏と爲り[#「神經系統の感應作用は反つて過敏と爲り」に白丸傍点]、隨つて喜怒愛憎の變轉甚だ迅速にして端睨す可からざるものありと[#「隨つて喜怒愛憎の變轉甚だ迅速にして端睨す可からざるものありと」に白丸傍点]。侯の近状果して斯くの如しとせば、其何等かの刺戟に由りて、一時若くは或場合に於て、伊東男と感情上の衝突ありしやも知る可からず。されど此れが爲に侯と伊東男との關係一變したりとは想像し得可くもあらず。而も伊東男の新内閣に入るを避けたるは他なし。一言にしていへば、侯は政友會の創立に付ても[#「侯は政友會の創立に付ても」に傍点]、將た新内閣の組織に付ても[#「將た新内閣の組織に付ても」に傍点]、多くは伊東男に謀らず[#「多くは伊東男に謀らず」に傍点]、たとひ之を謀るも多くは其の意見を容れずして[#「たとひ之を謀るも多くは其の意見を容れずして」に傍点]、反つて伊東男の平生敵視せる他の人士に謀りたるが故に非ずや[#「反つて伊東男の平生敵視せる他の人士に謀りたるが故に非ずや」に傍点]。蓋し彼れは新内閣を認めて豫後不良の症状ありと爲し[#「蓋し彼れは新内閣を認めて豫後不良の症状ありと爲し」に白丸傍点]、伊藤侯をして早晩之れを自覺せしめて[#「伊藤侯をして早晩之れを自覺せしめて」に白丸傍点]、局外より侯を救ひ出だすの手段を取らむと欲するものゝ如し[#「局外より侯を救ひ出だすの手段を取らむと欲するものゝ如し」に白丸傍点]。唯だ此の推定は[#「唯だ此の推定は」に白丸傍点]、彼と伊藤侯との關係に就て[#「彼と伊藤侯との關係に就て」に白丸傍点]、常識上より觀察したるに出づ[#「常識上より觀察したるに出づ」に白丸傍点]。若し彼れに別種の隱謀奇策ありとせば[#「若し彼れに別種の隱謀奇策ありとせば」に白丸傍点]、是れ固より彼れ以外の人の窺ひ知る可き所に非ず[#「是れ固より彼れ以外の人の窺ひ知る可き所に非ず」に白丸傍点]。
井上伯の失蹤は、渡邊子の心機一轉と相反襯して一幅の奇觀を表出せり。世間の取沙汰にては、渡邊子自ら新内閣の大藏大臣たらむことを豫期したるに、松方伯は伊藤侯に向て子を大藏大臣の器に非ずと爲し、此の椅子は斷じて子に與ふ可からずと説き、侯の意亦稍々之に動かされて井上伯を大藏大臣たらしめむとするの傾向ありしを以て、子は憤々の情に堪へずして伊藤侯と絶交せむとしたるのみと。而も子が心機一轉の喜劇を演じたる瞬間に於て[#「而も子が心機一轉の喜劇を演じたる瞬間に於て」に白丸傍点]、井上伯失蹤の一珍事起りしを見れば[#「井上伯失蹤の一珍事起りしを見れば」に白丸傍点]、渡邊子の心機一轉は[#「渡邊子の心機一轉は」に白丸傍点]、安ぞ井上伯の入閣中止の結果ならざるを知らむや[#「安ぞ井上伯の入閣中止の結果ならざるを知らむや」に白丸傍点]。されど此の際に於ける出來事は一切暗黒より暗黒に移りて方物す可からず。之れを批判するの必要もなく、又批判し得可くもあらずと雖も、獨り渡邊子が心機一轉問題を以て無用の人騷がせを爲したるに拘らず、其の豫期したる大藏大臣の椅子を得たるはめでたし。されど政友會總務委員等は、渡邊子の心機一轉問題に付て物々しく爭ひ騷ぎ、終に報告書を發表して、子の罪過を數へ、子の行動を稱して狂亂といひ、伊藤侯に向て其の處分を強請したるほどなるに、彼等は箇の狂人と内閣に并び立て怪むの色なきは、亦古今無類の一大奇觀なりといふ可し。元來渡邊子は疳癖ありて、往々常軌を逸する行動あり。而も之れを托するに無意義なる禪家の裝姿を以てするが故に、其の一擧手一投足は殆ど常識を以て料る可からざるものあり。政治家としては或は要領を得ずとの評を免れずと雖も、新内閣の大藏大臣としては[#「新内閣の大藏大臣としては」に白丸傍点]、子を外にして其の適任者を求む可からざれば[#「子を外にして其の適任者を求む可からざれば」に白丸傍点]、子を狂人視せる政友會總務委員等は[#「子を狂人視せる政友會總務委員等は」に白丸傍点]、到底子の位置を動かすこと能はじ[#「到底子の位置を動かすこと能はじ」に白丸傍点]。
末松謙澄男の内務大臣たるは、最適任といふ能はざれども、又大なる不可もあらず。彼れは内務に多少の經驗と學識とを有し、且つ其の資性も比較上廉潔に近かきものあるを以てなり。特に彼れは伊藤侯の愛婿として殆ど侯と一身同體の個人的關係あるが故に、侯は自由に之れを指揮監督するを得可きは無論なり。則ち末松男を内務大臣たらしめたるは[#「則ち末松男を内務大臣たらしめたるは」に白丸傍点]、是れ事實に於て[#「是れ事實に於て」に白丸傍点]、侯が自ら内務大臣を兼攝したるものと認めて可なり[#「侯が自ら内務大臣を兼攝したるものと認めて可なり」に白丸傍点]。政友會の一部人士は星亨氏を内務大臣たらしめむと欲して、熱心に運動したるに拘らず、侯が毫も是れに掛意せずして末松男を擧げたる良工の苦心[#「良工の苦心」に丸傍点]亦想ふ可し。
金子男は心竊に農商務大臣たらしむことを期せり。彼れの實業奬勵策は、何人も甚だ感服せざるものなれども、兎に角一度は農商務大臣たりしこともあり。實業上に關しては、曲りなりにも組織的意見を有せる一個の人才たるを以て、新内閣中彼れの爲めに最好の位置は確かに農商務大臣の椅子なりき。而も侯が彼れに與ふるに司法大臣の閑職を以てしたるは彼れが如何に侯の爲めに輕視せられ居るかを見る可し。松田正久氏の文部大臣たるは世人の均しく意外に感ずる所なる可し。世人は寧ろ尾崎行雄氏か否らずむば西園寺侯を以て文部大臣に擬したりき。西園寺侯は健康未だ恢復せざるの故を以て、自ら新内閣に入るを好まざりしといふの事情はあれども、尾崎氏に至ては然らず。彼れは曾て文部大臣として頗る好評あり、其の人物技倆亦松田氏と同日に語る可らざれば、則ち西園寺侯にして自ら起たざるに於ては、尾崎氏こそ寧ろ新内閣の文部大臣として最好の人物なれ。知らず彼れは内閣大臣を目的として進歩黨を脱したりといはるゝを氣にして[#「知らず彼れは内閣大臣を目的として進歩黨を脱したりといはるゝを氣にして」に傍点]、自ら入閣を避けたる乎[#「自ら入閣を避けたる乎」に傍点]。將た彼れ自身は入閣を望みたるも[#「將た彼れ自身は入閣を望みたるも」に傍点]、伊藤侯は彼れを閣員に加ふるを好まざりし乎[#「伊藤侯は彼れを閣員に加ふるを好まざりし乎」に傍点]。
星亨氏を遞信大臣たらしめ、林有造氏を農商務大臣たらしめたるは、恰も膏肉を餓虎に與へたる如しとて、國民の頗る寒心する所なり。されど伊藤侯は政黨に於ては首領專制を唱へ、内閣に於ては首相獨裁を主義とするの政治家たり。侯にして果して能く其の主義を實行するの決心あらば[#「侯にして果して能く其の主義を實行するの決心あらば」に白丸傍点]、たとひ詐僞師を内閣大臣たらしむるも亦必らず之れをして其詐僞を行ふに由なか
前へ
次へ
全50ページ中8ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
鳥谷部 春汀 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング