じ。有體にいへば、大隈伯よりも伊藤侯を以て自家の榮達を謀るに便宜なりと信じ[#「大隈伯よりも伊藤侯を以て自家の榮達を謀るに便宜なりと信じ」に傍点]、進歩黨よりも政友會を以て多望の未來を有すと認めたればなり[#「進歩黨よりも政友會を以て多望の未來を有すと認めたればなり」に傍点]。固より其の觀察と判斷とは、種々の方面と複雜なる材料を基礎としたるを疑はずと雖も、其の出發點の功名心にして、其の歸着點の榮達に在る可きは、何人も疑ふものある可からず。其の進退條件が政見の異同に關せざるは、彼れが曾つて進歩黨に對して何等の提言なかりしを以ても之れを知る可きのみならず、彼れが終始其の心事を秘密にして、一政友にすら眞實を語りたることなしいふを聞ても、其の如何なる動機に依りて進退したりしかを察するに足る。
凡功名心に富める政治家は、往々榮達の爲に主義政見を一擲するの例少からず。英國現内閣の殖民大臣チヤムバーレーンは、初め急進黨として、愛蘭自治論主張者として、チヤーレス、ヂルクの最親なる政友として、愛蘭黨首領パーネルの熱心なる辯護者として議會に立てり。然るにグラツドストンの自治案一たび出るや、彼れは遽かに之れに反對して終に保守黨と提携したり。其の表面の辭柄は大英國の統一を維持すといふに在れども、其の豹變の倏忽なるは、今尚ほ嚴酷なる批評家の冷笑を免がるゝ能はず。頃日米國の雜誌『アウトルツク』に掲載せるヂヤスチン、マツカーシー氏のチヤムバーレーン論を讀むに、其のチヤムバーレーンの自治案に反對したる當時の事情を説て頗る詳悉なり。其中にいへるあり、曰く愛蘭尚書ウイリアム、フオスターの辭職するや、其の後任としてチヤーレス、ヂルクを推薦する者あり、而もヂルクは内閣に座次を有せざれば、到底愛蘭に於ける自治政略を内閣に行はしむる能はずと稱して之れを謝絶したり。此に於てかチヤムバーレーンを以て之れに擬するものあり、彼れ亦竊に其の位置を希望し、且つ之れを得むが爲に、あらゆる手段を盡くしたり。彼れ以爲らく、我れは當然愛蘭尚書に推薦せらる可し、我れ能く其の任務を全うするの準備ありと。而して彼れは愛蘭の國民黨員《ナシヨナリスト》と或る協商を繼續し、而して其の國民黨員は、彼れにして若し愛蘭尚書たらば、必らず自治案主張者として行く可しと信ぜり。然るにチヤムバーレーンの豫期したる愛蘭尚書の位地は彼に與へられずしてフレデリツク、オヴヱンデス卿に與へられたり。間もなくフレデリツク卿被害の報は倫動に來れり。余(マツカーシー)自身はパーネル氏と相伴ひて、ヂルク及チヤムバーレーンの二氏を訪問し以て愛蘭の善後策を談ぜり。當時チヤムバーレーンは尚愛蘭國民黨に信任せられ、彼等はチヤムバーレーンを以て自治案に對する愛蘭人の要求に深厚なる同情を有するものなりと思へり。されど彼れは依然商務局長たるのみ、愛蘭尚書たるの機會は來らざりき。彼れが自治案に反對したるは此の以後に在りと。此に依りて是れを觀れば、チヤムバーレーンが其の持説を一變したるは、自由黨内閣が彼れに愛蘭尚書の位地を與へざりしもの其の主因たりしが如し。マツカーシー又曰く、初めグラツドストンの自治案に反對したる者は、自由黨にも亦頗る多かりき。されど反對の燒點たりし條項はグラツドストンに依て修正せらるゝに至て、彼等は皆グラツドストンの指導の下に復歸したり。獨りチヤムバーレーンは全く彼等と其の行動を異にしたりきと。余はマツカーシーの鋭利なる觀察に依て、チヤムバーレーンの進退に關する眞相を知ると共に、移して以て日本のチヤムバーレーンたる尾崎氏の行動を判斷するの參考と爲さむと欲す。故に特に其の大要を此に譯載したるのみ。
(五)交渉の失敗
政友會が各種の要素を收容せむとして、諸ろの方面に交渉したる畫策は大抵失敗に終れり。最も與し易しと爲したる貴族院研究會すら、宣言及綱領には贊成なれども研究會の會則は會員をして他の團體に加はるを禁ぜりとの口實に依りて入會を拒絶し、初めより伊藤侯の屬望したる實業家の如きも、東京大阪に於ける高級分子は、亦皆入會を避けて其の藥籠中の物とならず。而して其來り投ずるものは、大抵政治を以て營利の目的を達せむとする政商か、若くは中流以下の地方實業家のみ。侯の失望亦以て察すべし。
元來侯が實業家を收容せむとするの畫策は[#「元來侯が實業家を收容せむとするの畫策は」に傍点]、既に選擧法改正案提出の時に成り[#「既に選擧法改正案提出の時に成り」に傍点]、而して其の改正案を成立せしむるが爲めには[#「而して其の改正案を成立せしむるが爲めには」に傍点]、或は當局者として之れを議院に論じ[#「或は當局者として之れを議院に論じ」に傍点]、或は自ら貴族院の議席に就て之れを論じ[#「或は自ら貴族院の議席に就て之れを論じ」に傍点]、或は地方を遊説して其の所見を發表し[#「或は地方を遊説して其の所見を發表し」に傍点]、以て市の獨立[#「以て市の獨立」に傍点]、市民の投票權擴張を主張したるは[#「市民の投票權擴張を主張したるは」に傍点]、蓋し亦實業家を味方として政界に立たむとするの後圖に非るはなかりき[#「蓋し亦實業家を味方として政界に立たむとするの後圖に非るはなかりき」に傍点]。此の點に付て井上伯は深く侯の苦衷を諒とし、侯が政友會を發起するや、竊に親近なる都下の實業家に内意を傳へて有樂會の會合を催ふさしめたり。伯は自ら此會席に列して政友會の代辯人と爲りたりき。而して其の勸告の切偲を盡くしたるに拘らず、雨宮一派の相場師を除くの外、多數の實業家は孰れも申し合せたる如く、其の入會を辭謝したりき。蓋し彼等は必ずしも政治と實業との關係密切なる所以を解せざるに非ずと雖も、日本の政黨界には尚ほ多くの缺點あり。特に黨爭の結果個人的取引及び個人的交際までも其の餘累を及ぼすの弊害あるを見るに於て、未だ政友會の進行を檢するに及ばずして、輕ろ/″\しく之に入會するは、思慮ある實業家の爲さざる所なり。且つ入會勸告者たる井上伯は[#「且つ入會勸告者たる井上伯は」に傍点]、自身先づ政友會に入りて而る後他人の入會を勸告す可き筈なるに[#「自身先づ政友會に入りて而る後他人の入會を勸告す可き筈なるに」に傍点]、現に政友會の名簿中には伯の記名なくして[#「現に政友會の名簿中には伯の記名なくして」に傍点]、反つて他人の之れに記名せむことを望むは[#「反つて他人の之れに記名せむことを望むは」に傍点]、頗る蟲の善き話なり[#「頗る蟲の善き話なり」に傍点]。天下豈斯くの如き勝手氣儘の事ある可けんや[#「天下豈斯くの如き勝手氣儘の事ある可けんや」に傍点]。
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之れを要するに[#「之れを要するに」に白丸傍点]、立憲政友會は[#「立憲政友會は」に白丸傍点]、資望當世に比なき伊藤侯の發起に係れると[#「資望當世に比なき伊藤侯の發起に係れると」に白丸傍点]、其の朝野に亙りて比較的多數の政友を有すると[#「其の朝野に亙りて比較的多數の政友を有すると」に白丸傍点]、其の主要の目的實に既成政黨の陋弊を刷新するに在るとに依りて[#「其の主要の目的實に既成政黨の陋弊を刷新するに在るとに依りて」に白丸傍点]、頗る一時の人心に投ずるものありと雖も[#「頗る一時の人心に投ずるものありと雖も」に白丸傍点]、其の團體の大幹部は[#「其の團體の大幹部は」に白丸傍点]、最も腐敗を極めたる舊自由黨たるを見るに於て[#「最も腐敗を極めたる舊自由黨たるを見るに於て」に白丸傍点]、其の果して能く伊藤侯の理想を實行するを得可きや否やは[#「其の果して能く伊藤侯の理想を實行するを得可きや否やは」に白丸傍点]、暫らく政治的設題として之れを後日の解答者に待たむのみ[#「暫らく政治的設題として之れを後日の解答者に待たむのみ」に白丸傍点]。(三十三年十月)
第四次の伊藤内閣
(上)伊藤侯と憲政
幸運なる伊藤侯は、政治上最も多望なる時代に於て第四次内閣を組織せり。顧ふに侯の出づるや[#「顧ふに侯の出づるや」に白丸傍点]、常に時代に歡迎せらる[#「常に時代に歡迎せらる」に白丸傍点]。而も其の末路は[#「而も其の末路は」に白丸傍点]、常に失敗に終る[#「常に失敗に終る」に白丸傍点]。知らず、第四次内閣の進行は如何。是れ實に、政治家たる伊藤侯の死活問題なり。若し能く國民の冀望を滿足せしむるの施設あらむか[#「若し能く國民の冀望を滿足せしむるの施設あらむか」に傍点]、既徃幾多の失敗は[#「既徃幾多の失敗は」に傍点]、之を償ふて餘りあるのみならず[#「之を償ふて餘りあるのみならず」に傍点]、侯は明治年間第一流の政治家として[#「侯は明治年間第一流の政治家として」に傍点]、永く歴史上の大人物たるを得可し[#「永く歴史上の大人物たるを得可し」に傍点]。若し之れに反して萬一失敗せむか[#「若し之れに反して萬一失敗せむか」に傍点]、侯は到底虚名の政治家たるを免がる可からず[#「侯は到底虚名の政治家たるを免がる可からず」に傍点]。
薩長元勳にして内閣總理大臣たりしものは、侯を外にして故黒田伯あり、松方伯あり、山縣侯あり。されど黒田伯は唯だ一囘内閣を組織したるのみにて、而も極めて短命なる内閣なりき。松方伯と山縣侯とは、内閣を組織したること前後各二囘なりしも、之れを伊藤侯に比すれば、共に人氣ある總理大臣たるを得ざりき。伊藤侯の内閣を組織するや[#「伊藤侯の内閣を組織するや」に傍点]、最初は常に天下に歡迎せられて[#「最初は常に天下に歡迎せられて」に傍点]、最後は常に國民を失望せしむ[#「最後は常に國民を失望せしむ」に傍点]。侯が明治十八年自ら總理大臣と爲りて第一次の内閣を組織するや、始めて政綱を發表し、官制を改革し、文官任用令を設け、天下をして齊しく其の風采を想望せしめたりき。而も其の辭令の立派なる割合には實際に成功したる事績甚だ少かりしのみならず、繁文縟禮の弊反つて此間に生じたり。加ふるに浮泛なる歐化政略は、内治外交の兩面に救ふ可からざる壞膿を生じて、遂に内閣の瓦解を見るに至りき。第二次内閣は、選擧干渉に失敗したる松方内閣の後に組織せられ、山縣、黒田、井上、大山、仁禮の薩長元老も相携へて入閣したれば、世間之れを稱して元勳内閣といひたりき。侯は意氣軒昂我れ能く政黨の外に超然として議會を操縱するを得可しと信じたるに拘らず、議會は寧ろ侯の行動を非立憲的と爲して、荐りに不信任動議を提出したりき。一たびは和衷協同の勅諭を奏請したりき。二たびは議會の解散を斷行したりき。而も議會は容易に武裝を解くを肯んぜずして依然内閣の攻撃を事としたりき。此にて侯は超然主義の到底保持す可からざるを自覺し、自由黨と提携して内閣組織に多少の變更を加へたりと雖も、其の姑息※[#「糸+彌」、15−下−6]縫の政策手段は、漸く内閣の統一を破りて内部より崩壞したりき。
第三次の内閣組織に際しては、侯は初め之を大隈板垣兩伯に謀りて、所謂る三角同盟を作らむと試みたりき。其の行はれざるに及で、一切政黨との交渉を避けて超然内閣を組織したりしは、其の無謀固より論ずるに足らず。是れ半歳ならずして内閣總辭職の止む可からざりし所以なり。されど侯は此の失敗に依りて其の政治思想に一大發展を爲したり。乃ち今日政友會を組織して自ら政黨の首領と爲り、其黨員を率ゐて此に第四次内閣を組織したるは、是れ安んぞ超然主義の失敗に原本せざるなきを知らむや。侯は大隈伯に比すれば[#「侯は大隈伯に比すれば」に白丸傍点]、獨自一己の識見に缺くる所あり[#「獨自一己の識見に缺くる所あり」に白丸傍点]。大隈伯は明治十四年改進黨を組織してより[#「大隈伯は明治十四年改進黨を組織してより」に白丸傍点]、飽くまで政黨内閣を主張し[#「飽くまで政黨内閣を主張し」に白丸傍点]、且つ其の主張の早晩實行せらる可き時機あるを確信して[#「且つ其の主張の早晩實行せらる可き時機あるを確信して」に白丸傍点]、毫も疑はざりしに反して[#「毫も疑はざりしに反して」に白丸傍点]、
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