英斷を施し得る如き人物に非ず[#「決して憲法を中止するが如き大英斷を施し得る如き人物に非ず」に白丸傍点]。唯だ侯の系統に屬する屬僚中に無責任の激論を爲すものあるが爲め、世人をして侯を誤解せしめたるのみ。但し昨年伊藤内閣の末路に方りて、宮中に元老會議あり。伊藤侯の提出したる善後策に對して[#「伊藤侯の提出したる善後策に對して」に傍点]、黒田伯の憲法中止論出でたるは[#「黒田伯の憲法中止論出でたるは」に傍点]、事實として傳へられたれども[#「事實として傳へられたれども」に傍点]、是れとても伯が熱心に主張したるには非ざりしといふ[#「是れとても伯が熱心に主張したるには非ざりしといふ」に傍点]。山縣侯の謹愼を以てして[#「山縣侯の謹愼を以てして」に傍点]、豈斯くの如き暴論を唱ふることあるべけんや[#「豈斯くの如き暴論を唱ふることあるべけんや」に傍点]。
 余は曾て侯は出處に巧みなる人なりと評したることあり。其今囘に處する所以の者を觀るに、亦頗る其巧處あるに感服すと雖も、侯は到底政治家に非ず[#「侯は到底政治家に非ず」に傍点]。久しからずして必らず退隱せむ[#「久しからずして必らず退隱せむ」に傍点]。唯だ其現在の位地は[#「唯だ其現在の位地は」に傍点]、侯が從來養ひ來れる潛勢力によるものなるを知らば[#「侯が從來養ひ來れる潛勢力によるものなるを知らば」に傍点]、侯の潛勢力にして存在する限りは[#「侯の潛勢力にして存在する限りは」に傍点]、侯は決して未だ政界の死人に非ずと知るべし[#「侯は決して未だ政界の死人に非ずと知るべし」に傍点]。(三十二年一月)

     山縣首相に與ふ

      ※[#始め二重括弧、1−2−54]一※[#終わり二重括弧、1−2−55]
 侯爵山縣公閣下、我輩は多年閣下の政敵として論壇に立つものなりと雖も、閣下の徳を頌するに於て、亦敢て政府の屬僚に讓らざるの誠實を有せり、彼の政府の屬僚が閣下の徳を頌するや、動もすれば其過失をも辯護して閣下を誤らむとするものあり、我輩の閣下の徳を頌するや、唯だ其頌す可き所以を頌して、有りのまゝに所見を披陳するに外ならず、隨つて閣下の過失を擧示して忌憚なき所あるも[#「隨つて閣下の過失を擧示して忌憚なき所あるも」に傍点]、故らに訐いて以て直とするには非ずして[#「故らに訐いて以て直とするには非ずして」に傍点]、之れを閣下の聰明に訴へて[#「之れを閣下の聰明に訴へて」に傍点]、萬一の反省を求めむと欲するの微意のみ[#「萬一の反省を求めむと欲するの微意のみ」に傍点]、我輩は曾て閣下に何の恩怨なく、又何の求むる所なし、則ち其歎美す可きを歎美し、攻撃す可きを攻撃するに於て、一に事實と理義に據りて公明正大の論斷を下だすに過ぎざるなり。
 相公閣下、率直にいへば、我輩は閣下を當世の大政治家として、其人物を崇拜するものに非ず、又内治外交の政策に付ても、我輩は不幸にして多く閣下に同情を表する能はざるを悲む、さりながら維新の元勳として閣下の功勞は遠く伊藤井上の二者に出で、其維新後に於ける文武の事業も、亦赫々として人目に輝くもの多し、乃ち我輩は閣下の人物及其政策に敬服せざるの故を以て[#「乃ち我輩は閣下の人物及其政策に敬服せざるの故を以て」に白丸傍点]、決して閣下の國家に貢献したる功勞を忘るゝものに非ずと雖も[#「決して閣下の國家に貢献したる功勞を忘るゝものに非ずと雖も」に白丸傍点]、此れと同時に[#「此れと同時に」に白丸傍点]、我輩は近來閣下の政治的過失頗る少なからざるを認識し[#「我輩は近來閣下の政治的過失頗る少なからざるを認識し」に白丸傍点]、而して閣下の晩節之れが爲めに大に負傷したるの事實をも認識するに於て[#「而して閣下の晩節之れが爲めに大に負傷したるの事實をも認識するに於て」に白丸傍点]、こゝに謹で閣下の處決を促がすの公開状を與へんとす[#「こゝに謹で閣下の處決を促がすの公開状を與へんとす」に白丸傍点]。
 相公閣下、閣下は議會の盲從に依りて、既に二大宿題を解釋し得たり、一は第十三議會に於ける増租案にして、一は第十四議會に於ける衆議院議員選擧法なり、此二大宿題は共に前代内閣の持て餘ましたるものたりしに拘らず、閣下の内閣は終に能く議會の協贊を得たり、閣下の得意も亦想ふ可しと爲す、而も此れを以て、閣下の内閣極めて鞏固たるの證と信ぜば甚だ誤れり、况むや其の二大宿題の通過の如き、國家の利害より見れば、必ずしも喜ぶ可き成功なりと認む可からざるに於てをや、且つ閣下は内閣組織以來、前代未聞の政治的過失を行へり、顧ふに此の過失は半ば受動的行爲に出で[#「顧ふに此の過失は半ば受動的行爲に出で」に傍点]、閣下の本意に非るもの多からむ[#「閣下の本意に非るもの多からむ」に傍点]、凡そ人を殺すは罪惡なれども[#「凡そ人を殺すは罪惡なれども」に傍点]、故殺と謀殺とは[#「故殺と謀殺とは」に傍点]、其犯罪の度合に輕重あり[#「其犯罪の度合に輕重あり」に傍点]、閣下の過失は譬へば故殺罪の如く[#「閣下の過失は譬へば故殺罪の如く」に傍点]、始より豫備あるの着手に非る可きも[#「始より豫備あるの着手に非る可きも」に傍点]、さりとて閣下固より其過失に對する責任を※[#「二点しんにょう+官」、第3水準1−92−56]がるゝこと能はず[#「さりとて閣下固より其過失に對する責任を※[#「二点しんにょう+官」、第3水準1−92−56]がるゝこと能はず」に傍点]、是れ我輩が閣下の爲に深く悲む所なり[#「是れ我輩が閣下の爲に深く悲む所なり」に傍点]、但だ我輩は閣下の名譽の爲に、閣下が此の過失を重ねて益々其徳を傷けざらんことを望み、誠意誠心を以てこゝに謹で閣下の處決を促がすの公開状を與ふ、閣下願くは我輩が以下篇を累ねて説く所を諒とせよ。

      ※[#始め二重括弧、1−2−54]二※[#終わり二重括弧、1−2−55]
 山縣相公閣下、世には閣下を目して出處進退に巧みなる人なりといふ者あり、我輩も亦閣下が謹愼にして、常に出處進退に注意するの周到なるを信ずれども、獨り閣下が餘りに國家を憂ふるに切なるが爲に[#「獨り閣下が餘りに國家を憂ふるに切なるが爲に」に白丸傍点]、反つて自家の本領に背きて[#「反つて自家の本領に背きて」に白丸傍点]、漫然今日の難局に當りたるは[#「漫然今日の難局に當りたるは」に白丸傍点]、我輩甚だ閣下の爲に歎惜する所なり[#「我輩甚だ閣下の爲に歎惜する所なり」に白丸傍点]、閣下或は國家の急、敢て一身の利害を顧るに遑あらずと言はむ、此の類の言語は、古來往々愛國者の口より聞く所なりと雖も、國家の急は決して斯る單純なる思想の能く濟ふ所に非るを奈何せむや。
 曩に閣下の内閣を組織するや、自ら天下に告白して、我れは一介の武辨なりといへり、是恐らくは閣下の謙辭に過ぎざる可しと雖も、其の中亦閣下が自ら知るの明あるをも表示せり、今此の自知の明ありて[#「今此の自知の明ありて」に傍点]、尋常愛國者の軌轍を脱する能はず[#「尋常愛國者の軌轍を脱する能はず」に傍点]、強て國家の急に赴て之を濟ふ所以の經綸なく[#「強て國家の急に赴て之を濟ふ所以の經綸なく」に傍点]、而して其の有る所のものは一時姑息の施設に非ずむば則ち行政の紊亂と[#「而して其の有る所のものは一時姑息の施設に非ずむば則ち行政の紊亂と」に傍点]、議院政略の小成功とを見るのみ[#「議院政略の小成功とを見るのみ」に傍点]、是れ豈閣下の初心ならむや[#「是れ豈閣下の初心ならむや」に傍点]。
 相公閣下、閣下にして若し其初心を點檢せば、閣下恐らくは一日も現時の位地に晏然たる能はじ、我輩の見る所に依れば閣下は初期議會を切り拔けたる時を以て[#「閣下は初期議會を切り拔けたる時を以て」に白丸傍点]、正さしく閣下が政治舞臺の千秋樂と爲すべかりき[#「正さしく閣下が政治舞臺の千秋樂と爲すべかりき」に白丸傍点]、蓋し初期議會は、我國方に憲法政治の開闢時代に屬し、内外の人、皆半信半疑の眼を以て、政府及議會の行動を凝視したり、現に歐洲の學者中には、憲法政治を以て東洋人種に適せずと論ずるものありしを見るに於て、政府も議會も、當時實に世界の公試驗を受くるの位地に在りたりと謂ふべし。果して大衝突は始まれり、議會は殆ど解散の危機を踏まむとしたりき、而して閣下は當時の内閣に首班として慘憺の經營を竭くし、終に能く議會を平和の間に閉會せしむるを得たりしは、固より閣下の名譽ならずと謂ふ可からず、閣下乃ち此の時を以て内閣を退きたるは、其の出處進退亦巧みならずと謂ふ可からず、閣下若し當時の隱退を以て永久の政治的訣別としたらむには[#「閣下若し當時の隱退を以て永久の政治的訣別としたらむには」に白丸傍点]、閣下は清淨圓滿なる晩節を保全し得て[#「閣下は清淨圓滿なる晩節を保全し得て」に白丸傍点]、帝國憲法史上の第一頁を飾るの人物たらむなり[#「帝國憲法史上の第一頁を飾るの人物たらむなり」に白丸傍点]、而して斯くの如きは實に閣下の初心たりしや疑ふ可からず[#「而して斯くの如きは實に閣下の初心たりしや疑ふ可からず」に白丸傍点]。
 惜いかな[#「惜いかな」に傍点]、閣下は稀有の愛國者たる故を以て[#「閣下は稀有の愛國者たる故を以て」に傍点]、反つて其初心を喪ひ[#「反つて其初心を喪ひ」に傍点]、國家の急を坐視するに忍びずと稱して敢て今日の難局に當り[#「國家の急を坐視するに忍びずと稱して敢て今日の難局に當り」に傍点]、以て初期議會に博し得たる名譽を臺無しにするの過失を行ひたり[#「以て初期議會に博し得たる名譽を臺無しにするの過失を行ひたり」に傍点]、一昨年閣下が内閣を組織するや、識者は閣下の聰明に異状あるを注目して、竊かに其前途を危みたり、是れ他なし、議會開設以來既に十餘年を經過したる時代は、人文の進歩よりいふも、内外形勢の變化より見るも、到底前世紀の賢人等が出現す可き幕ならずと信じたればなり、我輩は必ずしも此見地に雷同するものには非ず、世の所謂る前世紀の賢人中にも、智力根氣共に強壯にして、尚ほ能く時代の精神を驅使する人物なきに非ざれども、而も此の見地は、大體に於て眞理を外づれざる鐵案たるは論ずるまでもなし。
 相公閣下[#「相公閣下」に白丸傍点]、我輩は閣下の尊敬す可き賢人たるを知る[#「我輩は閣下の尊敬す可き賢人たるを知る」に白丸傍点]、之を知るが故に[#「之を知るが故に」に白丸傍点]、我輩は閣下の生涯に汚點少なからむことを望みたり[#「我輩は閣下の生涯に汚點少なからむことを望みたり」に白丸傍点]、之れを望みたるが故に[#「之れを望みたるが故に」に白丸傍点]、今や其晩節を傷けたるを見て[#「今や其晩節を傷けたるを見て」に白丸傍点]、閣下の爲に※[#「りっしんべん+宛」、第3水準1−84−51]惜するの情も亦隨つて切なり[#「閣下の爲に※[#「りっしんべん+宛」、第3水準1−84−51]惜するの情も亦隨つて切なり」に白丸傍点]、之れを※[#「りっしんべん+宛」、第3水準1−84−51]惜するが故に[#「之れを※[#「りっしんべん+宛」、第3水準1−84−51]惜するが故に」に白丸傍点]、乃ち忠實に閣下に向て其の處決を勸告す[#「乃ち忠實に閣下に向て其の處決を勸告す」に白丸傍点]、是れ負傷したる閣下の晩節に對する唯一の臨床療法なればなり[#「是れ負傷したる閣下の晩節に對する唯一の臨床療法なればなり」に白丸傍点]。

      ※[#始め二重括弧、1−2−54]三※[#終わり二重括弧、1−2−55]
 山縣相公閣下、閣下にして若し初期議會以後の時代を領解し、曾て超然として政界の外に高踏したりとせよ、我輩は決して閣下の徳を頌するに吝ならじ、顧ふに閣下は前には軍制の改革家として[#「顧ふに閣下は前には軍制の改革家として」に傍点]、全國皆兵の主義を實行し[#「全國皆兵の主義を實行し」に傍点]、後には市町村制度の創意者として[#「後には市町村制度の創意者として」に傍点]、地方自治の基礎を確立したる人なり[#「地方自治の
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