びたるは、更に之れよりも一層忍び難きものあるを恐れたればなり。

      其三 社會改良
 圓卓を隔てゝ彼れと語れる記者は、如上の理由に依りて彼れの退隱に同情を表するを禁じ得ざりき。此に於てか彼れの社會事業は、又た滿腔の敬意を以て之れを迎へざること能はざりき。彼れは社會改良の必要なる所以を説て曰く、
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憲政の完美を謀らむとせば、社會の根柢を鞏固ならしめざる可からず。社會の公徳腐敗しては、獨り政治の健全ならむことを望むも難からずや。而して社會の公徳は、宗教家若くは道學先生の説教のみにて維持し得可きに非ざれば、先づ有形上の禮節作法より矯正し始むるを要す。是れ余が風俗改良に着手したる所以なり。
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彼れは※[#「女+尾」、第3水準1−15−81]々として順序正しく語り出だせり、彼れは風俗改良の手段としては、次に國民の音樂にも注意せざる可からずといひて、泰西の樂譜曲調を直譯したる學校音樂は、日本國民の趣味に適せざるがゆゑに之れを改良すべき必要ありと説きたり。彼れは憐れなる盲人の生活状態を進めむが爲に、盲人教育の必要ありと説きたり。彼れは鰥寡孤獨の救恤男女勞働者の保護は、共に國家の責任に屬する重要なる問題なるがゆゑに、前年内務大臣たりし時、既に屬僚に命じて調査せしめたることありと説きたり。彼れは之れを説きつゝ、或は瞑目して熟考する如く、或は眉を軒げ手を搖がして語氣を助けたりき。最後に彼れは最も興味ある佳語を以て、記者の傾聽を促がしたり。
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余を顧問としたる婦人同情會は女囚携帶乳兒保育會なるものを組織したり。是れ其の名の如く女囚の携帶乳兒を引取りて、之れを保育するを目的とする慈善事業なり。凡そ襁褓の乳兒にして[#「凡そ襁褓の乳兒にして」に傍点]、其の母の有罪なる爲めに[#「其の母の有罪なる爲めに」に傍点]、均しく獄中に伴はれて陰欝なる囚房の間に養育せらる[#「均しく獄中に伴はれて陰欝なる囚房の間に養育せらる」に傍点]、天下豈此に過ぐるの慘事あらむや[#「天下豈此に過ぐるの慘事あらむや」に傍点]、彼れ携帶乳兒の[#「彼れ携帶乳兒の」に傍点]、斯く獄舍の生活に慣るゝや[#「斯く獄舍の生活に慣るゝや」に傍点]、反つて普通兒童の活溌なる遊戯を喜ばずして[#「反つて普通兒童の活溌なる遊戯を喜ばずして」に傍点]、再び獄舍に入らむことを望むものあるに至る[#「再び獄舍に入らむことを望むものあるに至る」に傍点]。
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彼れは談じて此に至り、殆ど感慨に堪へざるものゝ如く、其の瞼邊は少しく濕るみ、其聲は少しく顫ひぬ。
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一女囚の携帶せる乳兒は、母乳の不足なるが爲に、麥飯の※[#「睹のつくり/火」、第3水準1−87−52]液《オモユ》を飮用せしめたるに、激烈なる下痢を起して死に瀕したり。婦人同情會は之れを引取りて治療を加ふるや、此の半死半生の乳兒は、忽ちにして健康體に復したりき。母の刑期滿つるを聞きて、其の監獄に携へ往きて母子を會見せしめたるに、母は喜び極まつて泣き[#「母は喜び極まつて泣き」に傍点]、以後決して罪惡を犯さずと誓へりとぞ[#「以後決して罪惡を犯さずと誓へりとぞ」に傍点]。又た一乳兒あり、聲を發する毎に臍凹み頭腦は腫張して頗る畸形なりき。其の病源は不明なれども兎に角之れを引取りて養育したるに、頭腦は常態に復し[#「頭腦は常態に復し」に傍点]、臍部の奇觀も止みたりき[#「臍部の奇觀も止みたりき」に傍点]。
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彼れは※[#「口+荅」、第4水準2−4−16]然として笑へり。冷やかなる笑に非ずして温かなる笑なりき。彼れは遽に容を改め、極めて莊重なる辯舌を以て犯罪を天性に歸するの理論を否定せり。彼れは犯罪を以て人生の不平に原本すと爲し、家に財なく、身に技術なきは不平の由て起る所なるがゆゑに、犯罪を減少せむとせば、國家は貧民に教育を與へて、生活に必要なる技術を授けざる可からずと熱心に論じつゝ、靜に椅子を離れて傳鈴を押せり。彼れは響に應じて來れる書生に、婦人同情會規則を持參す可きを命ぜり。斯くて一葉の印刷物を記者に渡たしたる彼れは、稍々其の顏面を曇翳を浮かべつゝ、
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眞の慈善家は大抵資財なく[#「眞の慈善家は大抵資財なく」に傍点]、富めるもの多くは慈善家にあらず[#「富めるもの多くは慈善家にあらず」に傍点]、儘ならぬ世や[#「儘ならぬ世や」に傍点]。
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と語り終りて座に復せり。

      其四 彼れの人格
 記者が彼れに於て見たる人格には[#「記者が彼れに於て見たる人格には」に傍点]、膽識雄邁[#「膽識雄邁」に傍点]、霸氣人を壓する大隈伯の英姿なく[#「霸氣人を壓する大隈伯の英姿なく」に傍点]、聰敏濶達[#「聰敏濶達」に傍点]、才情圓熟なる伊藤侯の風神なく[#「才情圓熟なる伊藤侯の風神なく」に傍点]、其の清※[#「やまいだれ+瞿」、第3水準1−88−62]孤峭にして[#「其の清※[#「やまいだれ+瞿」、第3水準1−88−62]孤峭にして」に傍点]、儀容の端※[#「殼/心」、43−上−8]なる[#「儀容の端※[#「殼/心」、43−上−8]なる」に傍点]、其の辯論の直截明晰にして而も謹嚴なる[#「其の辯論の直截明晰にして而も謹嚴なる」に傍点]、自ら是れ義人若くは愛國者の典型なり[#「自ら是れ義人若くは愛國者の典型なり」に傍点]。土佐人士には二種の系統あり、一は冷腦にして利害に敏なる策士肌の系統にして、故後藤伯之れを代表し、大石正巳林有造等の人格は之れに屬せり。一は温情にして理想に富める君子肌の系統にして、板垣伯之れを代表し、故馬場辰猪植木枝盛等の人格之れに屬せり。谷干城子の如きも、孰れかといへば寧ろ後者に近かく、唯だ其の板垣伯と異る所は、主義のみ、信條のみ、有體に評すれば[#「有體に評すれば」に白丸傍点]、谷子は保守主義の板垣伯にして[#「谷子は保守主義の板垣伯にして」に白丸傍点]、板垣伯は進歩主義の谷子なり[#「板垣伯は進歩主義の谷子なり」に白丸傍点]、更に語を換へていへば[#「更に語を換へていへば」に白丸傍点]、谷子は東洋的板垣伯にして[#「谷子は東洋的板垣伯にして」に白丸傍点]、板垣伯は歐化したる谷子なり[#「板垣伯は歐化したる谷子なり」に白丸傍点]。
記者は彼れの應接間を辭せむとしつゝ、端なく三個の額面に注目を導かれぬ。彼れは記者の問に應じて身を起し、先づ南面の壁上に掛れる金縁の大額を説明して曰く、
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是れ普佛戰爭後に於ける第一囘の佛國國民議會なり。左側に起立し、頻りに手を揮つて何事か發言しつゝあるの状を爲せる鬚武者の男は、有名なるガムベツタ[#「ガムベツタ」に傍線]なり。彼れは急進過激黨の首領として、斷然共和政府を建設す可しと主張し、當時盛むに國民議會の議場に暴ばれたりき。中央の椅子に坐を占め、群衆に取り圍まれて沈思默考しつゝあるは、穩和黨の首領チエール[#「チエール」に傍線]なり。彼れは共和政府建設論に對して、猶豫決する能はざるが爲に、急激黨の難詰を受けつゝあるなり。
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彼れは更に他の一額に向へり。是れ伊太利統一後始めて開きたる伊太利議會の寫眞なりき。彼れの持てる扇子は、起立せる異裝の一漢子に觸れたり。彼れは曰く、
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見よ、破れたる軍帽を冠むり、長がき外套を着し、一人の從者を伴ふて議場の片隅に起てる質朴漢は、是れ議會の光景を見むとて來れるガリバルヂー[#「ガリバルヂー」に傍線]なり。
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彼れは曾て日本の[#「彼れは曾て日本の」に傍点]ガリバルヂー[#「ガリバルヂー」に傍線]を以て稱せられたりき[#「を以て稱せられたりき」に傍点]。其の多感にして侠熱ある[#「其の多感にして侠熱ある」に傍点]、夫れ或は[#「夫れ或は」に傍点]ガリバルヂー[#「ガリバルヂー」に傍線]に私淑する所あるに由るか[#「に私淑する所あるに由るか」に傍点]。最後に彼れの説明せる石版繪の額は、此應接間に於て最も珍奇なる紀念品たりき[#「最も珍奇なる紀念品たりき」に白丸傍点]。舊式の武裝を爲したる十四五人の軍人は、或は鐵砲を捧げ、或は刀を撫して撮影せられぬ。而して彼れは三十歳前後の血氣盛りなる風貌に於て其の中に見出されしが[#「彼れは三十歳前後の血氣盛りなる風貌に於て其の中に見出されしが」に傍点]、其の面影は今も爭はれぬ肖似を認識せしめたりき[#「其の面影は今も爭はれぬ肖似を認識せしめたりき」に傍点]。此石版繪は、彼れが會津征伐より凱旋して、部下の士官を隨へ、江戸市中を遊觀したる時、通り掛けの寫眞屋にて撮影したるものゝ複製なり。彼れは之れを説明しつゝ滄桑の感に堪へざるものゝ如し[#「彼れは之れを説明しつゝ滄桑の感に堪へざるものゝ如し」に傍点]。
 顧れば彼れの出發點は軍人にして、中ごろ改革家と爲り、國會論者と爲り、政黨の首領と爲り、終には社會改良家と爲りて、最も平和なる生涯に入る。是れ譬へば急湍變じて激流と爲り[#「是れ譬へば急湍變じて激流と爲り」に白丸傍点]、更に變じて靜流と爲り[#「更に變じて靜流と爲り」に白丸傍点]、而して後一碧洋々たる湖沼と爲れるが如し[#「而して後一碧洋々たる湖沼と爲れるが如し」に白丸傍点]。此の點よりいへば、人生自然の順序を經過したりといふ可し。然れども彼れの生涯を一貫して渝らざるものは、利害よりも良心に動され易き性情[#「利害よりも良心に動され易き性情」に二重丸傍点]是れなり。是れ彼れの彼れたる所以なり。(三十五年十月)

     古稀の板垣伯

 ※[#丸中黒、1−3−26]三月十八日紅葉館に開かれたる板垣伯古稀の壽筵は、無限の同情と靄々たる和氣とを以て滿たされた近年の盛會であつた。伯の晩年は甚だ寂寞で、殆ど社會に忘られて居つたが、而も伯は社會に忘れらるゝのを怨みもせず、悲みもせず、又毫も自分に對する國民の記憶を要求もしない。こゝらが板垣伯の人格の尊い所であらう。
 ※[#丸中黒、1−3−26]元來伯は犧牲的精神に富める義人の典型であつて、政治家といふ柄ではない。故に政治上に於ては、伯よりも大なる事業を成した人は幾らもある。併し功勞の多少は別問題として、伯は明治史劇の或る重なる部分を勤めた役者であるに相違ない。
 ※[#丸中黒、1−3−26]民權自由論は決して伯の專賣品ではない。故木戸公や、今の伊藤侯大隈伯などは、伯よりも以前に、少なくとも伯と同時代頃には、民權自由の意義を領解して居つたのである。士族の特權を廢して四民平等の制度を設けたのは、即ち民權自由論より割り出した改革で、此の改革は、勿論伯一人の發議ではないのである。
 ※[#丸中黒、1−3−26]民選議院設立の建白といつても伯の首唱ではなく、當時の政府反對黨が案出したる政略的意見であるといふ方が適當である。伯は其の連名の一人たる外に、更に特筆大書すべき異彩を有した譯ではないのである。
 ※[#丸中黒、1−3−26]立憲政治を最も親切に研究した政治家は、故木戸公で、地方官會議を開いたのは其の準備であつたといつても宜しい。故木戸公のみならず、維新の元勳諸公は總て立憲政治の必要を認めて居つたのである。論より證據、維新の元勳中、誰れあつて立憲政治に反對した者がなかつたのを見ても分かる。
 ※[#丸中黒、1−3−26]切にいへば、明治政府は最初より立憲政治を主義としたものである。維新の大詔に、萬機公論に決すべしとありしは、最も明快に此の主義を宣示したので、明治初年早くも集議院といへる會議組織の官衙を設けたのも、立憲政治の地ならしを試みたのである。
 ※[#丸中黒、1−3−26]されば二十三年の國會開設は、明治政府が維新以來準備して居つた大事業を完成したまでゝあつて、板垣伯の運動に餘儀なくされたのでも何んでもないのである。
 ※[#丸中黒、1−3−26]且つ板垣伯の主張したる民權自由論は、佛國革命時代に行はれたルーソ
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