たりといひ、彼れが岐阜の遭難に死せざりしを不幸と爲すに至れり※[#白ゴマ、1−3−29]彼れは方にあらゆる醜詬詆辱の重圍に陷り、滿身悉く傷痍を受けて殆ど完膚なきを見る※[#白ゴマ、1−3−29]然り彼れが盛名の時代に死せざりしは實に彼れの不幸なりき※[#白ゴマ、1−3−29]大不運なりき※[#白ゴマ、1−3−29]さもあらばあれ彼れは他の元勳政治家に比して最も堅固なる根據を有せり[#「さもあらばあれ彼れは他の元勳政治家に比して最も堅固なる根據を有せり」に二重丸傍点]※[#白ゴマ、1−3−29]政黨の首領として最も素養ある位地を有せり[#「政黨の首領として最も素養ある位地を有せり」に二重丸傍点]※[#白ゴマ、1−3−29]他の元勳政治家は未だ利害を同ふするの政黨を擁するものなく、一旦政黨に頼るの必要を認むるに於て、唯だ現存の政黨を利用するか、若くは新たに之れを製造するの二途あるのみ※[#白ゴマ、1−3−29]然るに板垣伯の自由黨に於けるは[#「然るに板垣伯の自由黨に於けるは」に白ゴマ傍点]、多くの年所を閲みして終始相提携し[#「多くの年所を閲みして終始相提携し」に白ゴマ傍点]、以て離る可からざるの關係を爲せしに由り[#「以て離る可からざるの關係を爲せしに由り」に白ゴマ傍点]、彼れは尚ほ儼として政界の一勢力たるを失はざるなり[#「彼れは尚ほ儼として政界の一勢力たるを失はざるなり」に白ゴマ傍点]。
彼れは能く始めより政黨の眞意義と眞作用とを融會したりしや否や[#「彼れは能く始めより政黨の眞意義と眞作用とを融會したりしや否や」に白丸傍点]、將た政黨内閣を組織するの自信を有して自由黨と飽くまで進退を倶せんとするや否や[#「將た政黨内閣を組織するの自信を有して自由黨と飽くまで進退を倶せんとするや否や」に白丸傍点]、共に吾儕の知る所に非ずと雖も[#「共に吾儕の知る所に非ずと雖も」に白丸傍点]、とにかく日本政黨中に在て[#「とにかく日本政黨中に在て」に白丸傍点]、彼れは最も舊き歴史ある自由黨の首領として[#「彼れは最も舊き歴史ある自由黨の首領として」に白丸傍点]、比較的成功を得たるの事實は甚だ多とするに足れり[#「比較的成功を得たるの事實は甚だ多とするに足れり」に白丸傍点]※[#白ゴマ、1−3−29]余は彼れが心術の正邪醇駁分明ならざるを以て[#「余は彼れが心術の正邪醇駁分明ならざるを以て」に白丸傍点]、此の一成功を沒するに忍びざるなり[#「此の一成功を沒するに忍びざるなり」に白丸傍点]。(廿九年五月)
最近の板垣伯
其一 劈頭の喝破
曾て自由神の化身として、憲政の天國を建設す可く藩閥の惡魔と健鬪したる老英雄も、今や其の屠龍搏虎の手を收めて、平和にして且つ女性的なる社會事業に老後の慰藉を求むるの人となりぬ。曰く風俗の改良、曰く日本音樂の改良、曰く勞働者の保護、曰く盲人の教育、曰く女囚乳兒の保育、是れ彼れが老夫人の熱切なる同情と協力とに頼りて[#「是れ彼れが老夫人の熱切なる同情と協力とに頼りて」に白丸傍点]、現に社會に寄與しつゝある生涯の殘光なり[#「現に社會に寄與しつゝある生涯の殘光なり」に白丸傍点]。彼れの前世紀は、血の歴史なり、戰鬪の歴史なり、波瀾多き歴史なり。彼れは屡々不忠不臣の名を受けたりき。彼れの一擧一動は常に探偵の報告資料たりき。彼れの黨與は總て叛逆匪徒を以て目せられたりき。あらゆる迫害、あらゆる追窮は、高壓力に富める武斷政府に依りて間斷なく試みられたりき。豈唯だ此に止らむや。彼れは反對黨の毒刄に傷けられて殆ど生命を喪はむとしたりき。嗚呼當年の彼れを以て之れを現時の彼れに比せば、殆ど喬木を出でて幽谷に遷りしが如し、誰れか其の變化の甚しきに驚かざるものあらむや。
然れども彼れは二十餘年間國民的運動の首領たりしが爲に[#「然れども彼れは二十餘年間國民的運動の首領たりしが爲に」に傍点]、其の資望は尚ほ隱然として[#「其の資望は尚ほ隱然として」に傍点]、重きを公私人の間に有せり[#「重きを公私人の間に有せり」に傍点]。彼れが勢力の源泉たりし一大政黨は[#「彼れが勢力の源泉たりし一大政黨は」に傍点]、既に彼れの手を離れて伊藤侯の領有に屬したれども[#「既に彼れの手を離れて伊藤侯の領有に屬したれども」に傍点]、新首領の訓練未だ到らずして[#「新首領の訓練未だ到らずして」に傍点]、往々舊首領の復活を希望するものあるのみならず[#「往々舊首領の復活を希望するものあるのみならず」に傍点]、世には人の美徳を歎美するもの稀れにして[#「世には人の美徳を歎美するもの稀れにして」に傍点]、寧ろ他の意中を曲解するを喜ぶの批評家多きがゆゑに[#「寧ろ他の意中を曲解するを喜ぶの批評家多きがゆゑに」に傍点]、彼れ少しく動けば[#「彼れ少しく動けば」に傍点]、揣摩臆測紛然として隨ひ起る[#「揣摩臆測紛然として隨ひ起る」に傍点]、自由黨再興の風説の如き[#「自由黨再興の風説の如き」に傍点]、即ち其の一なり[#「即ち其の一なり」に傍点]。
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板垣の復活、自由黨の再興、何たる捏造説ぞ、余の夢にも覺えざる虚聞なり。
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是れ彼れが記者を其の應接間に迎へて、微笑を帶びながら、而も極めて明白に喝破したる劈頭語なりき。曩に高知政友會支部に紛擾あるや、彼れは老躯を起して故郷に歸れり。其の紛擾に對して、自ら責任ある裁决を與へむが爲には非ず、唯だ郷黨の要望に應じて、情誼上の忠告を與へむが爲に外ならざりき。彼れは一種の意見書を發表したりき。此の意見書には政治哲學の旨義を含蓄せる文字あれども、政黨首領の宣言書《マニフエスト》と全く其の體樣を異にしたる個人的立案なり。彼れ豈當世に野心あらむや。
其二 時代の事業
彼れは白縞の綿服に紺太織の袴を着け、籐椅子に凭れて日本製のシガレツトを吹かしながら、反切明亮なる土佐音にて談話を續けたり。
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政治界は權勢、名譽、利祿及び人爵の中心點なり。故に世俗の欲望皆此に集注す。獨り社會事業に至ては、本來無報酬にして一も如上の欲望を※[#「厭/(餮−殄)」、第4水準2−92−73]かしむるに足るものなし。是れ政治的退隱者たる板垣の爲に好個の事業に非ずや。
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彼れは斯く語りつゝ、眞摯なる鳶色の目にて記者を見詰めたり。三分の神經質と七分の多血質とを調和したる相貌は[#「三分の神經質と七分の多血質とを調和したる相貌は」に白丸傍点]、今も尚ほ依然として異状なき健康を保持し居れども[#「今も尚ほ依然として異状なき健康を保持し居れども」に白丸傍点]、其の額際より頬の邊りを繞りて[#「其の額際より頬の邊りを繞りて」に白丸傍点]、蜘蛛の巣の如く織り出されたる無數の皺紋は[#「蜘蛛の巣の如く織り出されたる無數の皺紋は」に白丸傍点]、深刻にして精苦なりし閲歴の默示として[#「深刻にして精苦なりし閲歴の默示として」に白丸傍点]、頗る記者の同情を刺戟したりき[#「頗る記者の同情を刺戟したりき」に白丸傍点]。村夫子らしき質朴の風采にも[#「村夫子らしき質朴の風采にも」に白丸傍点]、流石に第一流の國士たる品位は備はりて侵かし難く[#「流石に第一流の國士たる品位は備はりて侵かし難く」に白丸傍点]、純白にして柔滑なる絹樣の美鬚髯は[#「純白にして柔滑なる絹樣の美鬚髯は」に白丸傍点]、奇麗に梳られて顏面の高貴なる粧飾と爲れり[#「奇麗に梳られて顏面の高貴なる粧飾と爲れり」に白丸傍点]。凡そ人物の精力は[#「凡そ人物の精力は」に傍点]、大抵一期の時代事業終ると共に竭くるものたり[#「大抵一期の時代事業終ると共に竭くるものたり」に傍点]。明治の時代を見るに、維新政府の建設より國會開設に至るまでを第一期と爲す可く、國會開設より憲政黨内閣の組織に至るまでを第二期と爲す可く、第一期の時代事業は、專制主義の政府に代ゆるに立憲政府を以てして、國民に參政權を享有せしむるに在りき。是れ最も重大にして最も困難なる時代事業にして、歐洲に在ては、之れを仕遂ぐるが爲に殆ど百年以上の苦がき運動を要したりき。日本の板垣伯は、明治六年始めて其の同志と與に民選議院の建白を提出したり。而して十四年には、國會開設を豫約し給へる詔勅の煥發あり、二十二年には國民歡呼の間に憲法發布せられ、其の翌年には待ち設けたる初期の議會は召集せられたりき。是れ豈驚く可き速力を示せる成功に非ずや。彼れは此の成功の分配者として最大なる人物なり[#「彼れは此の成功の分配者として最大なる人物なり」に二重丸傍点]。彼れは他の如何なる政治家よりも[#「彼れは他の如何なる政治家よりも」に二重丸傍点]、此の第一期の時代事業に貢献したる功勞多きは[#「此の第一期の時代事業に貢献したる功勞多きは」に二重丸傍点]、爭ふ可からざる事實なり[#「爭ふ可からざる事實なり」に二重丸傍点]。伊藤侯は憲法立案者の名譽を獨擅し得可し、然れども此の名譽は、板垣伯が國民的運動の首領として根氣よく國會論を繼續したる賜のみ。故に伊藤侯が故陸奧伯の献策を納れて、彼れの率ゐたる舊自由黨と提携せむとするや、先づ彼れと會合し、徐ろに説て曰く、足下は國會開設の主動者なり、我輩は憲法の立案者なり、乃ち立憲政治の美を濟すの責任は、懸つて足下と我輩との双肩に在らずやと。是れ一時人を欺くの甘言たるに過ぎずと雖も[#「是れ一時人を欺くの甘言たるに過ぎずと雖も」に傍点]、事實は之れを眞理として承認せざる可からず[#「事實は之れを眞理として承認せざる可からず」に傍点]。彼れは日本憲政史上に永久磨滅す可からざる千古の格言を留めぬ[#「彼れは日本憲政史上に永久磨滅す可からざる千古の格言を留めぬ」に傍点]。如何に其の沈痛にして天來の音響を帶びたるかを記臆せよ[#「如何に其の沈痛にして天來の音響を帶びたるかを記臆せよ」に傍点]、曰く[#「曰く」に傍点]板垣死すとも自由は死せずと[#「板垣死すとも自由は死せずと」に丸傍点]、是れ實に國民的運動の大精神を代表したるものに非ずして何ぞや[#「是れ實に國民的運動の大精神を代表したるものに非ずして何ぞや」に傍点]。彼れの名は此の格言に依て萬世に感謝せらる可し[#「彼れの名は此の格言に依て萬世に感謝せらる可し」に傍点]。たとひ岐阜の遭難に死したりしとも[#「たとひ岐阜の遭難に死したりしとも」に傍点]、彼れに於て復た何の遺憾あらむ[#「彼れに於て復た何の遺憾あらむ」に傍点]。况むや生きて第一期の時代事業を完成し[#「况むや生きて第一期の時代事業を完成し」に傍点]、併せて其の當初の理想を實現したる政黨内閣をも[#「併せて其の當初の理想を實現したる政黨内閣をも」に傍点]、一たびは大隈伯と聯合して之れを組織したることあるをや[#「一たびは大隈伯と聯合して之れを組織したることあるをや」に傍点]。彼れは第一期の時代事業に竭くす可かりし精力を餘まして[#「彼れは第一期の時代事業に竭くす可かりし精力を餘まして」に傍点]、之れを第二期の事業にも使用したるがゆゑに[#「之れを第二期の事業にも使用したるがゆゑに」に傍点]、是れ所謂る強弩の末[#「是れ所謂る強弩の末」に傍点]、魯縞を穿たざるもの[#「魯縞を穿たざるもの」に傍点]。記者は寧ろ彼れが退隱の遲かりしを惜む[#「記者は寧ろ彼れが退隱の遲かりしを惜む」に傍点]。
顧ふに舊自由黨は、彼れと與に産まれて、彼れと與に成長したるものなり。彼れ一旦悟る所あるや、何の惜氣もなく、無代價にて之れを伊藤侯に讓與したりき。是れ人情の忍び難しとする所なれども、彼れに在ては疑ひもなく明哲の處置たり。蓋し今の政治界に立つものは、皆權勢利祿を得むことを目的とし、此の目的を達するに最も都合善き首領を求めて之れに頼らむと欲するものに非るなし。而も彼れの位地及び人物は此の點に於て黨人の望を繋ぐに足らざるを如何せむや[#「而も彼れの位地及び人物は此の點に於て黨人の望を繋ぐに足らざるを如何せむや」に白丸傍点]。彼れが人情の忍び難きを忍
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