に入らむことを望むものあるに至る[#「再び獄舍に入らむことを望むものあるに至る」に傍点]。
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彼れは談じて此に至り、殆ど感慨に堪へざるものゝ如く、其の瞼邊は少しく濕るみ、其聲は少しく顫ひぬ。
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一女囚の携帶せる乳兒は、母乳の不足なるが爲に、麥飯の※[#「睹のつくり/火」、第3水準1−87−52]液《オモユ》を飮用せしめたるに、激烈なる下痢を起して死に瀕したり。婦人同情會は之れを引取りて治療を加ふるや、此の半死半生の乳兒は、忽ちにして健康體に復したりき。母の刑期滿つるを聞きて、其の監獄に携へ往きて母子を會見せしめたるに、母は喜び極まつて泣き[#「母は喜び極まつて泣き」に傍点]、以後決して罪惡を犯さずと誓へりとぞ[#「以後決して罪惡を犯さずと誓へりとぞ」に傍点]。又た一乳兒あり、聲を發する毎に臍凹み頭腦は腫張して頗る畸形なりき。其の病源は不明なれども兎に角之れを引取りて養育したるに、頭腦は常態に復し[#「頭腦は常態に復し」に傍点]、臍部の奇觀も止みたりき[#「臍部の奇觀も止みたりき」に傍点]。
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彼れは※[#「口+荅」、第4水準2−4−16]然として笑へり。冷やかなる笑に非ずして温かなる笑なりき。彼れは遽に容を改め、極めて莊重なる辯舌を以て犯罪を天性に歸するの理論を否定せり。彼れは犯罪を以て人生の不平に原本すと爲し、家に財なく、身に技術なきは不平の由て起る所なるがゆゑに、犯罪を減少せむとせば、國家は貧民に教育を與へて、生活に必要なる技術を授けざる可からずと熱心に論じつゝ、靜に椅子を離れて傳鈴を押せり。彼れは響に應じて來れる書生に、婦人同情會規則を持參す可きを命ぜり。斯くて一葉の印刷物を記者に渡たしたる彼れは、稍々其の顏面を曇翳を浮かべつゝ、
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眞の慈善家は大抵資財なく[#「眞の慈善家は大抵資財なく」に傍点]、富めるもの多くは慈善家にあらず[#「富めるもの多くは慈善家にあらず」に傍点]、儘ならぬ世や[#「儘ならぬ世や」に傍点]。
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と語り終りて座に復せり。
其四 彼れの人格
記者が彼れに於て見たる人格には[#「記者が彼れに於て見たる人格には」に傍点]、膽識雄邁[#「膽識雄邁」に傍点]、霸氣人を壓する大隈伯の英姿なく[#「霸氣人を壓する大隈伯の英姿なく」に傍点]、聰敏濶達[#「聰敏濶達」に傍点]、才情圓熟なる伊藤侯の風神なく[#「才情圓熟なる伊藤侯の風神なく」に傍点]、其の清※[#「やまいだれ+瞿」、第3水準1−88−62]孤峭にして[#「其の清※[#「やまいだれ+瞿」、第3水準1−88−62]孤峭にして」に傍点]、儀容の端※[#「殼/心」、43−上−8]なる[#「儀容の端※[#「殼/心」、43−上−8]なる」に傍点]、其の辯論の直截明晰にして而も謹嚴なる[#「其の辯論の直截明晰にして而も謹嚴なる」に傍点]、自ら是れ義人若くは愛國者の典型なり[#「自ら是れ義人若くは愛國者の典型なり」に傍点]。土佐人士には二種の系統あり、一は冷腦にして利害に敏なる策士肌の系統にして、故後藤伯之れを代表し、大石正巳林有造等の人格は之れに屬せり。一は温情にして理想に富める君子肌の系統にして、板垣伯之れを代表し、故馬場辰猪植木枝盛等の人格之れに屬せり。谷干城子の如きも、孰れかといへば寧ろ後者に近かく、唯だ其の板垣伯と異る所は、主義のみ、信條のみ、有體に評すれば[#「有體に評すれば」に白丸傍点]、谷子は保守主義の板垣伯にして[#「谷子は保守主義の板垣伯にして」に白丸傍点]、板垣伯は進歩主義の谷子なり[#「板垣伯は進歩主義の谷子なり」に白丸傍点]、更に語を換へていへば[#「更に語を換へていへば」に白丸傍点]、谷子は東洋的板垣伯にして[#「谷子は東洋的板垣伯にして」に白丸傍点]、板垣伯は歐化したる谷子なり[#「板垣伯は歐化したる谷子なり」に白丸傍点]。
記者は彼れの應接間を辭せむとしつゝ、端なく三個の額面に注目を導かれぬ。彼れは記者の問に應じて身を起し、先づ南面の壁上に掛れる金縁の大額を説明して曰く、
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是れ普佛戰爭後に於ける第一囘の佛國國民議會なり。左側に起立し、頻りに手を揮つて何事か發言しつゝあるの状を爲せる鬚武者の男は、有名なるガムベツタ[#「ガムベツタ」に傍線]なり。彼れは急進過激黨の首領として、斷然共和政府を建設す可しと主張し、當時盛むに國民議會の議場に暴ばれたりき。中央の椅子に坐を占め、群衆に取り圍まれて沈思默考しつゝあるは、穩和黨の首領チエール[#「チエール」に傍線]なり。彼れは共和政府建設論に對して、猶豫決する能はざるが爲に、急激黨の難詰を受けつゝあるなり。
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彼れは更に他
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