ルにゐなかつた。午前中は例の空屋部落へ行つて、だいぶ長いこと歩き廻つたりスケッチをとつたりした。それから一たんホテルに帰ると、旧市街へ出かけた。ふと目についた戦蹟《せんせき》巡覧のバスに、空席があるといふので、ふらりとそれに乗りこんだ。バスは、天井に大きな弾痕《だんこん》のあるロシヤ軍の将校集会所を振りだしに、山へ登つて、坦々《たんたん》たるドライヴ・ウェイを上下しながら、主防備線づたひにぐるぐるめぐつて行く。主だつた激戦地ではバスを降りて、運転手が朴訥《ぼくとつ》な口調で説明してくれる、堡塁《ほうるい》やジグザグの攻撃路などが、一々丹念に復元されてゐて、廃墟といふより、何か精巧な模型の上でも歩いてゐるやうに空々しい。それなりに、肉弾といふ奇怪な言葉が、するどく思ひ返されもする。東鶏冠山《とうけいかんざん》の北堡塁《ほくほうるい》や、松樹山の補備砲台は、平生《へいぜい》セメントや煉瓦《れんが》をいぢくる商売がら、つい熱心に見て廻つたが、けつきよく僕にわかつたことは、〔chair a` canon〕 と human bullet と、この二つの言葉の、はつきりした区別にすぎなかつた。その
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