まあしごく泰平無事だつたといへるだらうね。
 所もあらうに、季節はづれの旅順なんかで、しかもそんな人気《ひとけ》のないホテルで、その女にぱつたり再会したのだ。ちつとは驚いてもよからうぢやないか、だがそれつきり、その日は彼女の姿を見かけなかつた。夕食はやつぱり僕一人だつた。
 あの婦人はここに泊つてゐるわけではあるまいと、僕は断案をくだした。おそらく知人かそれとも良人《おっと》を訪ねてきて、それがゐないので失望して帰つたのだらう。もしそれだとすると、誰か僕のほかに二階に泊つてゐる人があることになる。その人が夜更けに水道の栓をひねつたり、洗面盤の水をはねかしたりしたわけだ。だがまた、その下手人《げしゅにん》は必ずしも泊り客でなくてもいいわけだ。二階の客の用にそなへて、ホテルでは大抵どこか二階の奥あたりに、ボーイの詰所《つめしょ》があるはずだ。そこにシーズン外れの時節には、コックさんか何かが寝泊りしてゐてもいいわけだ。……そんなことを僕は漠然と考へた。その女が誰を訪ねて来たかといふ点は、依然として不明なわけだが、さうさうこだはる必要もないことだつた。
 あくる日は殆《ほとん》ど終日、僕はホテ
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