すすめた。僕はなるべく小さな一房を選んで頂戴《ちょうだい》する。僕はふと思ひだした、小脇のポートフォリオの中から、ゆふべ友人の細君が「道中で召上れ」といつて呉《く》れたハルビンのチョコレートの小函《こばこ》を出し、葢《ふた》を払つてうやうやしく夫人にすすめた。
 そのへんで僕は御免かうむつて食堂へ立つたから、あとのことは知らない。食堂では昼間は禁制のビールを二本ほど、できるだけ緩《ゆっ》くり飲んだ。帰つてみると夫人と小間使とは、互《たがい》にもたれ合つて安らかに眠つてゐた。夫人の頭は、まるまるした小間使の肩にあづけてある。臙脂《えんじ》色の小沓《こぐつ》をはいた片足は、無心に通路の中ほどへ投げだしてあつた。葡萄《ぶどう》の籠《かご》は半ば空つぽになつて、洗面台の上にのせてある。そこで僕も安心して、こつそり窓ぎはの席に坐《すわ》るとぐつすり寝てしまつた。ボーイか誰かが起してくれたと見え、僕がやつと目を覚ました時には、列車はもう大連西郊の工場街にかかつてゐ、夫人はすつかり身仕舞ひをして、廊下の窓に倚《よ》つてゐたといふわけだ。そのまま、税関の検査のどさくさのうちに離れ離れになつたのだから、
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