る。僕はしぶしぶ快諾した。何しろ二晩悪友のお附合をさせられた挙句で、僕はひどく睡《ねむ》かつたものでね。やがてはいつて来たのが今いつた女だつたのだ。
 その時はライラック色ではなしに、こまかい紅色の花を一面に散らした黒い服を着てゐた。持物もそれにふさはしい地味で上品なものだつた。歯ぎれのいい支那語でことわりを言ひ、にこやかに席についた。かすかに竜涎香《りゅうぜんこう》が匂つた。お伴の若い小間使も入口ちかく席を占めた。僕は一目で、これは満人ではないと睨《にら》んだ。なんぼ僕だつて七年もゐれば、そのくらゐの見分けはつくさ。
 大人びた物をぢしない身のこなしだつた。はじめはただ美しいと思つたその顔も、近々と横から眺めれば三十の半ばには少なくも達してゐるらしい。愛想よく二言三言はなしかけて来たが、こちは何しろお耳に入れるも恥かしいブロークンな満語だ。まあ大体のところ、日本内地からやつて来た旅行者に見立ててもらふ方針で、言葉すくなに応待するうち、向うもおよその安心が行つたものか、何やら小声で小間使とうなづき合はせると、みごとな宣化|葡萄《ぶどう》の小籠《こかご》をとりだして、まづ僕に取れと言つて
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