しい軋《きし》りがかすかにした。
 ところで君は、一体その女は僕にとつて何者なのかと、いささか好奇心をもやしてゐるかも知れないね。もしさうだつたら、なんとも申訳ない次第だ。現実はあひにくと、小説ほど都合よくできてはゐないからね。実をいふと僕はその女について、ほとんど知つてゐることはないんだよ。一体あれは何者だつたらうと、未だに時どき思ひだすぐらゐのところさ。
 さうだ、どうせここまで話したら、はつきり言つてしまはう。僕はその女に、三昼夜半ほど前に、たつた一度会つたことがあるだけだつた。会つたといつても、安心したまへ、汽車の中でのことだ。僕はそれまで勤めてゐた民生部を、大体やめる決心がつくと、辞表を懇意な上役にあづけて、新京を去つて奉天《ほうてん》へ行つた。二人ほど別れを告げたい友達がゐたものでね。二日ほどして、大連行きの朝の急行に乗りこむと、案内されたコンパートメントは僕一人だつたのを幸ひ、発車するかしないうちにうとうとしはじめた。しばらくして僕はボーイに揺り起された。席がなくつて困つてゐる婦人がある。少々ゆづつてあげてくれないか――といふのだ。コンパートメントは四人はたつぷり掛けられ
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