らよく響く。下りきると、急ぎ足と言つていいほどの足どりで帳場の前を横ぎり、まつすぐこつちへ向つて来た。ライラック色の支那《しな》服をきた脊《せ》の高い女だつた。廊下のまん中で立ちどまると、いきなりこつちへ横を見せて、奥の食堂の方を透かすやうに見た。ほとんど肩すれすれまで、むきだしになつてゐる豊かな二の腕が、蝋《ろう》色に汗ばんで、どうやら胸をはずませてゐるらしい。一二歩、食堂の方へ行きかけたがやめて今度はキッとこつちを見た。もし僕が新聞を楯《たて》にしてゐるのでなかつたら、おそらく眼と眼がぶつかつたに相違ない。そして僕は何かしら声を立てたにちがひない。あの女だ――と僕は咄嗟《とっさ》に思つたからだ。が、女は僕に気づかなかつた。瞬間ありありと失望の色を浮べると、長い裾《すそ》を蹴《け》るやうにして姿を消した。例の支那服特有の裾の裂け目から、きりりと締つたふくらはぎが、一度二度ひらめいた。臙脂《えんじ》色の小さな沓《くつ》もちらりと見えたやうだ。そのどつちも僕は見覚えがあつた。
 僕は耳を澄ました。沓音はポーチの敷石にひびき返つて、外へ出ていつたらしい。暫《しばら》くすると洋車の出て行くら
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