ゐた。
ホテルに帰つてからも、僕はまだ何か幻にうかされてゐるやうな気がした。それはもう、感動といふよりは疲労のせゐだつたらう。何しろ昼飯もわすれて、五時間ちかくガラス棚を覗《のぞ》き廻つてゐたのだからね。僕は大急ぎでトーストと珈琲《コーヒー》をたのむと、誰もゐないサロンで満洲日報を読みはじめた。なるべく早く現実へもどる必要を感じたからだ。景気のいい戦争記事が、大きな活字でべたべた並べ立ててあつた。だがどれを読んでも空々しい感じしかしなかつた。さうだ、一刻も早く北京へ――そんな声が、心の隅でささやいてゐた。それも早ければ早いほどいい。一日おくれればそれだけ、僕の求めるものが失はれて行くやうな気がした。僕を蘇生《そせい》させてくれるエレクシールが、どしどし減つて行くやうな気がした。僕は危ふく大連へ電話を申込まうとさへした。だが例の先輩がまだ帰任してゐないことは明らかだつた。僕はしぶしぶ諦《あき》らめた。
だが、そんな風にふらふらしてゐた僕を、すばやく現実へ引きもどしてくれるものが、案外手ぢかな所から現はれた。はじめは小刻みな沓《くつ》音だつた。それが二階から下りて来たのだ。敷物が薄いか
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